2008年10月17日金曜日

井上ふみさん逝く







 人の記憶とは頼りにならないものだ。
 私は長い間、井上ふみさんとお目にかかったのは2回だったと記憶していた。それは、長時間お喋りしたのが2回だったもので、今回よくよく調べてみると、4回お目にかかっていたことがわかった。
 最初に世田谷区桜にある井上邸にお邪魔したのは、1999年5月13日。この日の朝にお電話を入れ、お許しをいただいたので午後にうかがった。

 ちょうど知人を介して、ある雑誌が創刊されたので何か書かないかと勧められ、「女のお勝手」と題する連載をはじめることにした。
 時代の主役はますます女性になっていく。そこで、各界の素晴らしい女性たち、それもある程度人生の先輩たちに登場していただき、普通なら公開しない、けれども女の城である「お勝手」も見せていただいて、暮らし方や、その先にある生き方を引き出そうという企画だった。

 第1回目の人選が肝心だと思った。文豪・井上靖の夫人はどうか。ダメでもともとと知り合いの編集者に相談したら、ふみさんにつないでくださった。それで、ともかく掲載する雑誌を持参してお願いしてみようと、この日は参上したのだった。
 玄関先で5分のつもりであったのに、ふみさんは応接間に通してくださり、すっかり話が弾んで、もう次の予定が迫っておいとまを申し上げるまで1時間半も長居してしまった。

 翌朝、再びお電話すると、ふみさんは取材を快諾してくださった。5日後の18日、私は桜新町の花屋でカサブランカを買い求め、写真家の瀬戸正一氏と一緒に井上邸を訪ねた。
 ふみさんは、カサブランカをことのほか喜んでくださった。生前の文豪が使われていた大きな応接間で長い時間お話を伺ったあと、文豪の書斎や書庫、野菜を作っている庭、それこそ数え切れないほどの賓客をもてなすための戦場だった台所まで、丁寧に案内してくださった。

 かれこれ3時間ほども滞在させていただいただろうか。既に米寿を過ぎたお身体であり、ご負担になってはいけないと帰り支度をすると、もう一杯お茶を飲んでいけとおっしゃる。
 それから、応接のテーブルを挟んで私の顔をじっと覗き込まれ、「ずいぶんきれいなお顔ね。おばあちゃん、あなたのこと好きよ。またいらっしゃいね」と悪戯っぽくおっしゃった。これには瀬戸さんも爆笑した。京女の色気さえあって、私は年甲斐もなく顔を赤らめた。

 3度目にお伺いしたのは、6月13日。印刷に回す前にゲラに目を通していただくためだった。冷や汗ものでお出ししたのだったが、ふみさんは「これでいい」とおっしゃってくださった。わざわざ美味しい冷菓を用意してくださっていた。
 4度目は、その1ヵ月後の7月13日。刷り上がった雑誌をお届けに上がると、たいそう喜んでくださった。それが、お目にかかった最後となった。

 この連載は、駐日インド大使夫人のジョツナ・シンさんや日動画廊の長谷川智恵子さん、祇園「吉うた」の高安美三子さん、航空業界の女性に道を拓いた永島玉枝さんらが快く続いてくださった。だが諸般の事情で雑誌そのものが廃刊になり、その後が途絶えたことは残念なことだった。
 その後も、ふみさんにお目にかかりたい気持ちは山々だったものの、ご高齢の身にさわってはいけないと遠慮していた。

 ふみさんは世界的に高名な解剖学者・足立文太郎氏の長女として、明治43年(1910年)京都に生まれている。やがて、足立家に居候するようになった遠縁の青年との結婚を勧めたのは、文太郎氏だった。青年の文才を誰よりも見抜き、信じていたのが、文太郎氏だったのだ。
 「ものを書きたいという靖の芽をお前が育てなさい。いろいろなことがあるかもしれないよ。しかし、お前ならついてゆくだろう」

 靖氏の没後、平成7年(1995年)に上梓されたエッセイ集『やがて芽をふく』の「あとがき」で、ふみさんはこの父君の言葉をあらためて紹介し、こう綴っている。
 「幸せなことに靖は、育ってくれたと思う」「今は故人となってしまった靖も、何があっても波風を立てずに従い通した私に感謝していると思う。あともう何年生きられるかと思うが、このままの至誠を続けていこうと思っている」

 この13日、ふみさんの逝去の報が駆けめぐった。この数年、年齢を考えても私のなかに覚悟がなかったわけではないが、来るべき日が来たと慄然とするものがあった。
 どうしても、お別れを申し上げたくて、17日の午前、目黒・羅漢会館での葬儀に馳せ参じた。井上家の菩提寺が日蓮宗ということで、法華経方便品、如来寿量品自我偈の読経のなか、美しい花々に囲まれて凛としたふみさんの遺影が微笑んでいた。

 隣室で控えているわれわれ弔問者のところにも、読経や弔辞が聞こえてくる。故人の威徳を物語るように、弔電の紹介では、小泉純一郎元総理はじめ、主な出版社の首脳はもちろん、日中関係者、文豪が往復書簡集を編んだ池田大作・創価学会名誉会長らの名が続いた。
 私は、会場の片隅にふみさんがいるような気がして、心の中で「ふみさん」と呼びかけてみた。それから弔問の列に混じって焼香し、あらためて遺影に「ありがとうございました」と御礼を申し上げた。

 作家と名を冠される人はいても、百年、二百年と読み継がれていく人がどれくらいいるかと考えると、多くは一瞬のスパークのごとく消えていくように思われる。そうしたなかで、井上靖という巨星が、どれほどの時間を経ても天座に微動だにしない存在であろうことは、今さら私が書くまでもない。けれども、もしも文豪がふみさんという伴侶を得ていなかったら、歴史は違っていたのではないか。
 小児麻痺を乗り越え、戦争を乗り越え、夫の花を咲かせ、一世紀近くも生き抜かれた。本当に美しい天晴れな女性だった。心からご冥福を祈りたい。

(2008.10.17)