2009年5月14日木曜日

恋文






 それは、今から15、6年前、私がまだ世田谷の砧公園の近くに住んでいた頃のことである。新春の寒い時期のことであったと思うが、近隣で葬儀があった。Kさんという年配の婦人のお宅で、ご主人が亡くなったのだった。
 Kさんとは会えば目礼する程度の面識で、亡くなったご主人には生前一度もお会いしたことがなかった。

 葬儀の日、私は体調が芳しくなかった。本当は休んでいたかったが、平日の日中のことでもあり若い男手が足りなかった。近隣の者たちでお手伝いをすることになり、顔見知りの若い友人たちも加わるというので、迷ったが出向くことにした。
 入り組んだ路地の奥にあるKさんのお宅に来る会葬の人々や霊柩車を案内するために、私は何時間も微熱のある体で外に立ちつくしていた。

 誰かが私の具合のことを告げたのだろう。翌日、Kさんは近隣の女性を案内にわざわざわが家まで来て、こちらが恐縮するほど申し訳ないという顔をして、礼と詫びを述べられた。そして、私が独り者だと知って、まもなく自宅に招いて手料理を振る舞ってくれた。
 「お恥ずかしい田舎料理ですが」。そう言って、甘辛く炊いた芋を出してくださった。信州・松本の生まれだと教えてくれた。

 Kさんは、息子さん一家と同居していた。玄関を入ってすぐ左側の日当たりのいい小さな和室が彼女の居室で、真ん中には炬燵があり、鴨居にはセピア色をした軍服姿の青年の写真が飾ってあった。
 それは亡くなられたご主人の若き日の姿だった。連れ添った夫の記憶として、つい先日まで見慣れていた老いてからの風貌ではなく、あえて新婚時代の若々しい写真を選んで額装したのだった。

 以来、年に何度か電話をいただいて、そのたびにお邪魔をするようになった。お嫁さんは「おばあちゃんのわがままにつき合ってくださって申し訳ない」と苦笑しておられたが、Kさんは読んでいる文献にわからないところが生じると、私に電話をしてきた。
 実際、彼女は80歳を過ぎてなお熱心に向学心を燃やしていた。私もまた、なぜか彼女との時間は苦にならないどころか心地よささえあったので、茶飲み友達を引き受けて楽しんでいた。

 もともと「おばあちゃん子」であった私は、彼女の中に祖母の面影を重ねていたのかもしれない。
 こんなことを書くと叱られそうだが、私と向かい合う彼女はなんだか女学校時代の少女のようであった。それは異性に対して「好意」などという単語を当てはめることすら憚られるほどの、もっと初々しい、もっと純粋で清々しい、それだけにもっと秘めやかな感情の暗黙の交流だった。

 30歳になったかならぬかという若い男と、80歳を遠に過ぎた女。しかし第一次世界大戦の年に生まれた彼女は、古風な矜持を貫き通した。どこまでも礼儀正しく、孫のような私に奥ゆかしい敬語で接し通し、私が辞去する際は、どんなに留めても路地の先までついてきて、私の姿が道の向こうに消えるまで両手を体の前に重ねて見送るのが常だった。
 毎回、もう二度と会えない人を見送るような覚悟を目に滲ませて、彼女は静かに私の背中を見つめるのだった。

 だが数年後、私が他区に引っ越すことになった。彼女は見ていて哀れなほど、たいそう落胆した。それで、私は彼女に手紙を書いてくれと頼んだ。彼女が遠慮するだろうと思ったので、半ば命じるように強引に提案をした。
 それから2、3ヵ月に一度、封書が届くようになった。彼女らしい、飾り気のない白封筒と便箋で、冒頭はいつも「一筆御無礼申し上げます」で始まっていた。

 内容は、さして特段に何ということもない庭先の植物の様子や、私の健康を気遣うものばかりだった。それでも、彼女が本心では週に一度でも書きたい気持ちを抑えに抑えて、しかもそんな自分の心をどこかで恥じらいながら、あえて当たり障りのない文面にしていることが行間から読み取れた。
 見た目も淡泊な、ボールペンで綴られた硬質な文字を見ながら、私はこれが「恋文」でなくて何であろうと思った。

 私は返信のたびに、「どうか長寿であってもらいたい」と書いた。ときどき弱気な文面が届くのが気にかかったので、僭越を承知で「生きて生きて生き抜くということが、貴女の人生の勝利なのだ」というふうにも書いた。
 ときに、それは酷なことなのかもしれないと思わないでもなかったが、私は「ともかく長生きをしてほしい」と繰り返した。終戦の年に30歳だった彼女が、晩年の平和な時代を一日でも生き抜くことに、理由などいらないと思った。

 その後、私が結婚するとなった折、彼女は意を決したように私を自宅に招いた。一瞬だけ睨むような笑顔で私の前途に祝意を述べ、「奥様となられる方に申し訳がないから、もうお手紙をさしあげることはいたしません」と伝えてきた。私は、彼女が紛れもなく「女」として私と向かい合っていたのだとあらためて知らされ、微笑ましいような心苦しいような複雑な気持ちになった。
 ちょうど砧公園の桜が満開だった頃で、私はKさんを散歩に誘った。

 彼女は承知して嬉しそうに私に伴った。私は、彼女が二度と私に会うことをしないだろうと感じていたので最後の思い出を作ってあげたかったし、彼女もまた、その私の思いを理解していたのだと思う。考えてみれば、数年間の交流の中で、二人だけで外に出かけるのは初めてだった。
 小一時間ほど園内を歩いた。紙吹雪のように桜が舞う中で私が持っていたカメラを向けると、彼女は「こんなお婆さんだから恥ずかしいわ」と顔を背けて拒んだ。

 その日を最後に、定期便のように届いていた白い封書は二度と来なくなった。きわめて型どおりの年賀の葉書だけが、私とKさんとの交信になった。
 最後に届いていた封書には、「これからも貴方様からのお教えを守り通していく」とあった。そして、私自身の予想を超えて、力強く長寿へ歩み通した。彼女は「生き抜く」という事実で私に心を伝えようとしてくださった。

 先日、人づてにKさんが亡くなっていたことを知らされた。今年の4月16日の未明、家族に見守られ、老衰で眠るように息を引き取ったとのことだった。
 既に葬儀なども終わっていたようで、一報を聞いた私は、即座に深夜の自宅で静かに追善の祈りを捧げた。お焼香にだけでも訪問しようかと考えたが、彼女はそれを望まないだろうと思ったし、ご遺族にも余計なご迷惑をかけたくなかった。二人で桜花の舞う砧公園を歩いて、ちょうど7年目の同じ季節である。

 ある時、Kさんは私の干支を訊ねてきた。私が卯だと答えると、それまでずっと礼節を崩さずにしてきた彼女が、無邪気な子供のように両手で爪を立てるマネをして、「私は寅。トラだから、ウサギなんて食べちゃうのよ」と一瞬だけおどけてみせた。それまで一度も、あんな顔を見せたことはなかった。
 不思議なことに、私の心には寂寥のようなものは微塵もない。ただ、明るい午後の光の中で桜の花びらが激しく舞っているのである。

(2009.5.14)