寺山修司作『毛皮のマリー』は、「異形」の者たちの物語である。
登場するのは、もう若くはない男娼のマリー。彼女に仕える醜い下男。マリーによって室内に閉じ込められたまま育てられた美少年・欣也。その欣也に性の愉楽を教えようと誘う少女。マリーを男娼と承知しつつ一夜を共にする逞しい水夫。
物語はやがて、マリーと欣也の関係の衝撃的な秘密を明かしていく。
かつて、自分を裏切り、自分をいじめた女に対し、マリーがとった想像も出来ないような復讐の方法。出生の秘密を知る欣也。
けれども、物語は意外な方向に転がっていく。
登場人物は、誰も彼もが奇怪である。
人間というものが内に隠し秘めている不可解な闇。もはや「業」としか言い表せないような、それぞれの狂気。
けれども、その「異形」の誰もが、途方もなく人間的な温かみを放ち、愛しくさえ感じさせる。
この物語は、つまり残酷なほどに「そうとしか生きられなかった者たち」の物語なのである。
醜く、不気味に、常軌を逸し、熱を放ちながら生きている者たちの物語。
彼らは、それでもなんとか「そうとしか生きられなかった」人生を受け容れ、それに辻褄を合わせて生きていこうとしているかのように見える。
この醜悪なドラマを、人形劇俳優・平常(たいら・じょう)がたった1人で演じきる。
平自身が制作した、デフォルメされた不可思議な人形たちが、平の肉体と交錯し合い、互いに抱き、抱かれていく。
私は以前、彼の舞台『はなれ瞽女おりん』について、次のように書いた。
――この人の中には三千人の人間が棲んでいる。
どこまでが生きた人間で、どこからが人形なのか。どこまでが男で、どこからが女なのか。どこまでが善人で、どこからが悪人なのか。
男も女も、老いも若きも、人間の善も悪も、純朴さも邪心も、すべてが平常という一人の俳優の上に幻灯のようにめまぐるしく映し出されていく。
それは、演じられているというよりも、命の中から湧き現れてくるものである。
平さんが人形を操っているのか、人形が平常という男の身体を操っているのか、それすら判然としなくなる。
一個の生命には、じつに森羅三千の宇宙の全体が収まっている。われわれが、ここからは自分の外だと決めつけているものも、他人の上に見ている美醜も、すべてわが一念の内に収まっている。
だからこそ恐ろしいし、だからこそ無限の希望がある。
平常という人は、その生命の奥深い真実を、舞台の上でわが身に映し出してしまう。これは一人で操る人形劇でなければかなわない秘技である。
その魔術を、平さんは命を削るようにして、命と交換するかのような覚悟を滲ませて、紡ぎ出していく。
観客は、美しく怪しい魔法にかけられたまま、その命がけの舞台に圧倒され、幕が閉じても、しばし席から立てなくなるのである。――
『毛皮のマリー』でも、客席はすっかり魔術の中で、何度も笑いながら醜悪な者たちの闇を覗き続ける。
そして、舞台の幕が下りて、家路につきながらハッと気づくのである。
自分もまた、まぎれもなく「そうとしか生きられなかった」人生を歩いていることに。
そうであれば、どうあっても最後には辻褄を合わせねばならないのだということに。
登場するのは、もう若くはない男娼のマリー。彼女に仕える醜い下男。マリーによって室内に閉じ込められたまま育てられた美少年・欣也。その欣也に性の愉楽を教えようと誘う少女。マリーを男娼と承知しつつ一夜を共にする逞しい水夫。
物語はやがて、マリーと欣也の関係の衝撃的な秘密を明かしていく。
かつて、自分を裏切り、自分をいじめた女に対し、マリーがとった想像も出来ないような復讐の方法。出生の秘密を知る欣也。
けれども、物語は意外な方向に転がっていく。
登場人物は、誰も彼もが奇怪である。
人間というものが内に隠し秘めている不可解な闇。もはや「業」としか言い表せないような、それぞれの狂気。
けれども、その「異形」の誰もが、途方もなく人間的な温かみを放ち、愛しくさえ感じさせる。
この物語は、つまり残酷なほどに「そうとしか生きられなかった者たち」の物語なのである。
醜く、不気味に、常軌を逸し、熱を放ちながら生きている者たちの物語。
彼らは、それでもなんとか「そうとしか生きられなかった」人生を受け容れ、それに辻褄を合わせて生きていこうとしているかのように見える。
この醜悪なドラマを、人形劇俳優・平常(たいら・じょう)がたった1人で演じきる。
平自身が制作した、デフォルメされた不可思議な人形たちが、平の肉体と交錯し合い、互いに抱き、抱かれていく。
私は以前、彼の舞台『はなれ瞽女おりん』について、次のように書いた。
――この人の中には三千人の人間が棲んでいる。
どこまでが生きた人間で、どこからが人形なのか。どこまでが男で、どこからが女なのか。どこまでが善人で、どこからが悪人なのか。
男も女も、老いも若きも、人間の善も悪も、純朴さも邪心も、すべてが平常という一人の俳優の上に幻灯のようにめまぐるしく映し出されていく。
それは、演じられているというよりも、命の中から湧き現れてくるものである。
平さんが人形を操っているのか、人形が平常という男の身体を操っているのか、それすら判然としなくなる。
一個の生命には、じつに森羅三千の宇宙の全体が収まっている。われわれが、ここからは自分の外だと決めつけているものも、他人の上に見ている美醜も、すべてわが一念の内に収まっている。
だからこそ恐ろしいし、だからこそ無限の希望がある。
平常という人は、その生命の奥深い真実を、舞台の上でわが身に映し出してしまう。これは一人で操る人形劇でなければかなわない秘技である。
その魔術を、平さんは命を削るようにして、命と交換するかのような覚悟を滲ませて、紡ぎ出していく。
観客は、美しく怪しい魔法にかけられたまま、その命がけの舞台に圧倒され、幕が閉じても、しばし席から立てなくなるのである。――
『毛皮のマリー』でも、客席はすっかり魔術の中で、何度も笑いながら醜悪な者たちの闇を覗き続ける。
そして、舞台の幕が下りて、家路につきながらハッと気づくのである。
自分もまた、まぎれもなく「そうとしか生きられなかった」人生を歩いていることに。
そうであれば、どうあっても最後には辻褄を合わせねばならないのだということに。