1999年8月1日日曜日

井上ふみさん




「夫を育てる」ことに一生を捧げた明治の気骨


 明治43年(1910年)、のちに解剖学の世界的権威となる足立文太郎博士の長女として京都に生まれたふみさん。井上靖氏との結婚式の日、父上は「きょうの婿さんは、将来、日本一の文士になります」と挨拶された。極貧を覚悟の結婚。夫が芥川賞をとったとき、「これで芽は出た。あとは上手に育てることだ」と決意した。

井上ふみ
いのうえ・ふみ●1910年、京都吉田山に生まれる。父の足立文太郎氏は、京都帝国大学教授で、解剖学軟部人類学の創始者。同志社女学部から専門部英文科に進むが、病気療養のため中退。昭和10年、井上靖氏と結婚し、2男3女(次女は早産で夭逝)をもうける。
平成3年、靖氏の逝去にともない、井上靖文化財団理事長。著書に、「風のとおる道」「私の夜間飛行」「やがて芽をふく」など。


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69歳までは、自由にさせましたよ

 井上靖氏が使っていた広い応接間。最初は8畳ほどの部屋を応接に使っていたが、やがて坪庭をつぶして大きく広げなければならなくなった。
「いつ頃からか、外国の使節もおみえになるようになったもんですから」
 昭和25年、43歳を目前に芥川賞をとった靖氏は、その後の40年間で日本を代表する世界的な作家となった。晩年の靖氏と旅をしたふみさんは、長安の街でも現地の人々が井上靖(チンシャンチン)先生を知っていたことに驚かされた。
「69までは、自由にさせましたよ」
 夫が何千回と座った場所で、ふみさんは微笑んだ。その眼差しには、瞬間だったが明治の女の覚悟と気迫が漂った。
「文士は自由にさせないと。靖を育てろというのが、父の言葉でしたから」
 標準語に、たおやかな京都のアクセントが交じる。応接間の一隅から、靖氏の遺影が微笑み返している。
「君、よく頑張ったなあ」
 そんな夫の声が、今もふみさんには聞こえるのかもしれない。
 六代、医者の家として伊豆・湯ヶ島に続いた井上家の長男・靖氏が京都に来たのは、ふみさんが19のときだった。親への義理で九州大学の医学部を受験したが駄目で、当時は無試験だった京大の哲学科に入ってきたのだった。ふみさんの父・足立文太郎氏は、京大で教鞭をとっていた。
 文太郎氏の母が井上家の出身。足立家と井上家は最も親しい親戚関係にあった。父親と離別した文太郎氏は、井上家で育てられていた。
「靖は小兵でしたが、柔道ではそうとう名をはせていたようでしたよ」
 そういえば、遺影の耳が少し潰れている。足立家の人々は、らんまんなスポーツ青年を家族のように愛した。青年はほどなく物書きになりたいと言い出した。
 高校時代にも浪人した上、大学に7年もかかった靖氏から求婚されたとき、ふみさんに迷いがなかったわけではない。靖氏はまだ学生だった。文士を志すとあっては、生活の保障などない。父は娘に、こんな話をした。
「文士という仕事はおもしろいが、極貧であるかもしれない。だが、おまえならついていける。普通の人が集まるところは、それなりにいいだろう。だが、池の鯉でも一つの麩に皆が集まれば、一匹の食べられる量はいかほどでもない。ありつけない者もある。しかし、離れたところでほかの者が気づかない麩を見つけた鯉は悠々と食べることができる」
 靖氏の文才を最も確信していたのは、文太郎氏だった。


明治の人間だから、物を捨てられない

 その夫が逝って、8年。少し耳が遠くなったし、昔のことは覚えていても、きのうのことが思い出せないのよと笑う。それでも、今も昼間は庭に出て2時間でも3時間でも菜園を手入れする。
「この前なんかは張り切りすぎて、腰に膏薬をいっぱい貼ることになったけど、このほうが健康でいられるんですよ」
 夫は野菜嫌いだった。文学のことはわからないが、夫にいい仕事を残させるためには、何より健康を守らなければならないと思った。少し日をあけて、何かしら種を蒔き、インゲンも人参もつくって、食べさせる工夫をした。
 菜園を触るときの手袋は、式典などでテープカットを引き受けた折に使った白手袋。クリーニング屋のハンガーにネットをかぶせ、カラスよけに苗を覆う。
「最近はワンちゃんも惚けて、野菜の上に寝ちゃうのよ」
 初夏の庭先。夫がかわいがっていた老犬が、傍らでまどろんでいる。
「全部、廃物利用。あの棚もこの本立ても戴いた果物の箱。この小物入れは卵豆腐のケース。付箋はチラシを切ったもの。お婆ちゃんのすることはおもしろいって、家族は笑うんですけどね」
 明治の人間だから物を捨てられないのよと、楽しそうに言う。宝物を見せる幼子のように、台所や自分の机周りの「秘密」を教えてくれる。育ちの良さから薫る品格。しかし、決して飾らない。
「みんな、井上先生の奥様だからすごい人だって思ってるけど、私は普通のお婆さんですよ」
 夫が成功し、暮らしが豊かになっても、自分のものは最低限に始末して、夫と夫の仕事を第一にした。夫がいなくなって、家にいるときは、その男物の服を着ることもある。
 文豪は野菜だけでなく魚も苦手で、食べ方さえ下手だった。ふみさんは、会食の席でも隣で魚の身をほぐしてあげた。文壇一といわれた酒豪の靖氏は、明るい酒だったが、帰宅が午前3時頃になることもしばしばだった。2時半になると、雪の日でも門の外で夫を待った。
「夫を送ってくださる人だって、次の日は仕事があるでしょう。私が寝ていては申し訳ないですから」
 夫がつきあう人を大切にすることに、徹して心を砕いた。夫と国内外に招かれれば、一服のお茶、一皿の料理に、客を迎える姿勢を一生懸命に学んできた。
 原稿の清書を手伝うことは、新婚当時からの年中行事で何度も徹夜をした。4人の子を育てながら、夫に気を配り、大切に大切に文字どおり「育て」てきた。
 それが苦にならなかったのは、文太郎氏の遺訓があったからだけではない。実子のほかに兄弟の子供8人を一緒に育て上げ、学校を出させ、嫁がせた働き者の母親と、体の弱かったふみさんを細心の注意を払って育ててくれた、愛情豊かな父親の姿があったからだろう。


私と結婚して、あの人は幸せだった

「私って、よくおしゃべりするでしょ」
 人の名前でも、外国の地名でも、さまざまな数字でも、驚くほど鮮明に覚えていて、よどみなく口をつく。
「靖が生きているときは、ここにお客様がいても、私は裏方でしたから。でも、今では来られるのは私のお客様ですからね」
 用心棒代わりに男孫が二階で寝起きする。若い者たちと話す時間が、ふみさんには最も幸せなひとときだ。
 ご自身がものを書き始めたのは、70を過ぎてからだった。軽井沢の別荘にたまたま一人でいたとき、山ほどあった原稿用紙に思いつくことを書いてみた。清書を手伝ってきたおかげで、書き方はわかっていた。靖氏に見せると、「君、これが随筆というものだよ」と言ってくれた。歌集や料理の本のほか2冊の随筆集が上梓できたのも、夫の勧めがあったからだ。
 平成3年1月、靖氏は食道ガンで逝った。ふみさんは何度となく酒量を控えるように注意していたのだが、頑固な明治男は聞かなかった。
 銀座のお店のママさんたちにも、そっとお願いをしておいたのに、夫は勝手にグラスの中身を濃くしてしまう。
「それでも、83まで生きられれば、日本人としては長生きでしょう」
「靖が死んだときも、人生でしてあげることは全部してあげましたから、ひどく悲しいということはありませんでした」
 そう言って、靖氏の遺影のほうを見た。
 晩年の夫は、日本の教育の荒廃に心を痛めていた。健在であれば、もう少し、その方面の仕事もできたのではないか。それだけは、ちょっと残念な気持ちが残る。
「今のお母さんたちは、子供を駄目にしている人が多いように思いますよ。幼稚園にでも、面倒だから車で送っちゃう。一緒に歩けば、道路の危なさとか、いろいろなことを教えてあげられるのに」
 奥にある価値観、人間への向き合い方が貧しく粗雑になってきていることを、明治の女は憂える。
「生まれ変わっても、靖先生とご一緒になりたいですか」
 その質問に、瞬間、遠くを見つめるような眼差しをされた。
「あの人は、いい人でしたよ。決して威張ったりもしませんでしたし。優しい人でした。それに、あの人は幸せだったと思います。私と結婚して……」
 そう言ってから小さくうなずかれた。
 戦争をくぐり抜け、4人の子供を育て、夫をいたわり続けた働き者の手が、膝の上にそっと置かれている。靖氏の書斎からも見えた庭の蜜柑の木に、鮮やかな揚羽蝶が舞い降りているのをみとめて、声を出された。


(『リミューズ』 1999年8月号)