©yoshio Tokuyama/朝日新聞社
フォトジャーナリストで『アエラ』フォト・ディレクターでもある徳山喜雄さんの個展の初日なので、夕刻、表参道の画廊まででかける。
徳山さんはベルリンの壁の崩壊を東側から撮影した唯一の西側の写真家であり、これまで東欧や旧ソ連、そしてチェルノブイリや原爆といったテーマで、余人の追随を許さぬ仕事を重ねてこられた。
徳山さんはベルリンの壁の崩壊を東側から撮影した唯一の西側の写真家であり、これまで東欧や旧ソ連、そしてチェルノブイリや原爆といったテーマで、余人の追随を許さぬ仕事を重ねてこられた。
私のささやかなオフィシャルサイト(※註:2007年当時の旧サイト)の玄関を飾っているのも、徳山さんの写真である。「革命の達成を喜ぶ小さな市民」と題された印象的な作品で、横暴な権力を倒したルーマニア市民の輪の中で、高く抱き上げられた少年が、もうボロボロになった三色の国旗を誇らしげに掲げている。
徳山さんの人間と社会へのまなざしを凝縮したような作品であり、ご好意で使わせていただいているものだ。
このところ東京の都心はかつてのバブル期を越えるような勢いである。春雷の中、車で麻布十番から青山へと抜けていくと、週に何度も通っている道なのに、あんな所にいつのまに建ったのかと驚くように、あちこちに背の高いビルが姿を見せていた。周囲を睥睨する塔のような超高層マンションも多く、ペントハウスにはどんな人が住むのだろうと下世話な想像をせずにはいられない。
さて、「廻廊都市」と題された徳山さんの今回の個展は、報道写真家として知られる氏の写真とはまた趣を異にしたもので、きわめて芸術性の高い色彩の美しい作品に溢れていた。
しかも被写体となっているのは、工業地帯の港湾であったり、土砂採取場であったり、錆びついてペンキの剥げたシャッター、廃墟の門柱の壊れた呼び鈴、破れた有刺鉄線、落書きの残る壁など意外なものばかりだ。
一番私の心を捉えたのは、馬込にあったという古い建物を撮ったもので、美しい緑青色に塗装された大扉が印象的な、佐伯祐三の油彩を彷彿とさせる作品だった。
私が「これが一番いい」と告げると、後ろに立っていた徳山さんが「僕もこれを気に入っていて、自分の部屋に飾っているんです」とおっしゃった。
車庫か倉庫らしい被写体の建物は、もう取り壊されてしまったのだそうだ。
それにしても、いわゆるファッショナブルな光景とはおよそ対極にあるような被写体の数々が、これほどまでに美しく、力強く、観る者の心に迫るのはなぜなのだろう。
東洋には宇宙の時間を捉えた概念に 「成住壊空(じょうじゅうえくう)」という哲理がある。宇宙の万物は、生成され、存在し、崩壊するという運命をたどる。生命であれば「生老病死」があるし、一個の星にも銀河にも、生と死がある。
ひとたび死したものは、「空(くう)」へと溶け込んでいく。「有」でも「無」でもない、「空」という実在。それが「無」ではなく「空」であるからこそ、条件が整えば、再び冥伏していた五蘊が仮和合して一個の形を形成していく。
最新の天文学が洞察しているように、大宇宙それ自体もまた成住壊空を繰り返し、そこに生きる万物もまた成住壊空のリズムを奏でているのだ。
徳山さんの切り取った都会の光景を食い入るように見つめながら、私は「ああ、この人は都市の成住壊空を見事に描いてみせられたのだ」と感嘆した。
あるいはそれは私の浅読みに過ぎず、ご本人からすれば見当違いなことかもしれぬ。それでも私は、画廊に並んだ都市の表情の中に、誕生と死、存在と虚空を観じたし、そのすべてを貫く赫々とした常住不変の血潮をたしかに見たというしかない。
都市の中で暮らしていると、まるで新しいものだけが至高の価値を纏ったかのように、次々に新しい光景で周囲が覆われていく。かつてあった記憶や物語はコンクリート屑や残土と一緒にダンプカーでいずこかに捨て去られてしまうのだが、新しい街もまた、さらに新しい街に束の間の王座を奪われていく。
その喧噪はまるで、「死」を忌みながら「死」に足下をすくわれる現代の象徴のようでもある。
徳山さんの撮った都市の一隅の、それこそ錆びて朽ち壊れた、しかし荘厳な「死」の光景に見入りながら、私の脳裏には「生も歓喜。死も歓喜」という、かつてわが恩師がハーバードで講じた言葉が浮かび上がってきた。
そういえば、氏の代表作として国際的に評価の高い『千年紀へのメッセージ』にも、若い警官の葬列の光景があるが、その遺骸の表情が放つ思いもかけない神々しさに息をのんだものだ。
生と死を分断していく思想を越えて、生も死も一個の全体を構成する一つの要素と見ていく思想こそが、じつはいたずらな「死」への暴走を食い止めていく。新しい千年紀に求められているのは、そういう生と死への新たなまなざしである。
徳山さんという優れたジャーナリストが深い哲学性を体現した個展を見せてくださったことに衝撃と感慨を覚え、御礼を述べて会場を辞した。
(2007.3.6)