きょう12月3日で、東君平が亡くなってから20年になる。君平は私の父の末弟。私にとっては叔父である。
君平は1963年、23歳のときにイラストレーターとしてデビューし、その年に私が生まれた。それから23年後、23歳になった私がもの書きとしてスタートを切ろうとしていた1986年に、君平は46歳で世を去った。
私の赤ん坊の頃のアルバムを見ると、少年の面影を残した独身時代の君平が何枚も写っている。とりわけ、他の写真とくっきりトーンの異なった何点かの組写真が残っていて、それは君平が悪戯心たっぷりに私を撮ったものだ。
海外渡航が難しかった時代にニューヨークなどを旅してきた彼は、幼かった私に「晋平が大きくなったら外国に連れて行ってあげる」と約束してくれた。
その頃に、君平がプレゼントしてくれた茶色い革製の鞄の形をした小銭入れを、私は約束の証文のように長い間大事に持っていた。
高校生になって東京でひとり暮らしをはじめた私は、ある夜、中野区上高田にあった君平の家を訪れた。たしか私が「将来、もの書きになりたい」と思いつきのような夢を語ったのだと思う。彼は真剣な表情で私にいった。
「晋平、いいかい。人間はどんなことでも10年間やれば一人前になれるんだ。僕が今から寿司屋に奉公に入ったとしよう。最初はド素人でも、10年やれば一人前の寿司屋だ。大工でもそうだ。10年という時間があれば、人は何でも一人前になれる。このことを覚えておくんだよ」
これは私に対する彼の遺言になった。
彼はまたこの日、雑誌に文章を寄稿したときに編集者が勝手に句読点を触ったり、勝手に「絵本作家」とか「エッセイスト」とか肩書きをつけたことがあって、怒鳴り散らしてやったのだと憤懣を述べた。
困りはてた編集者に、じゃあ肩書きはどうしましょうかと問われて、ヘンコツオヤジの彼は「肩書きなんかつけるな」と答えたという。
世間的には童話作家として評価が定まり、当時、『毎日新聞』にも「おはようどうわ」を長く連載していた。それでも当人は職人気質のようなところが多分にあり、細かいことでも無神経に自分の仕事に触れられることが我慢ならなかったのだろう。
そんな君平と人生で最後に会った日のことを、私はきのうのことのように鮮明に覚えている。
1986年の初夏、私がアルバイトをしていた月刊誌で、君平にエッセイを書いてもらうことになった。編集長に提案したのは私で、君平は私の依頼を二つ返事で引き受けてくれた。
梅雨明けが近いある日、表参道にあるクレヨンハウスで待ち合わせをして、私は彼から原稿を受け取った。ザッと見て、依頼していた紙幅をずいぶんオーバーしているように見えたので、そのことを指摘した。
すると、「君に任せるから、君が読んで好きなように縮めてくれたらいい」とあっさりいうのである。私は戸惑いながら、「肩書きは何と付けますか?」と訊ねた。例の彼のヘンコツが脳裏にあったからだ。
君平は、またしてもあっさりと「君が好きに付けてくれたらいいよ」と笑った。そして、渋谷に美味しい台湾料理があるから今から一緒に食べないかと誘ってくれた。
しかし、その日にかぎって私は親友と遊ぶ約束を入れていた。「悪いけどきょうは予定がある」と告げると、君平はずいぶんと残念そうな表情をし、それからよく晴れた夕刻の表参道のケヤキ並木の下でお互いに笑顔で手を振って別れた。
それが、私が君平を見た最後の光景だった。あのとき彼の誘いを断ったことを、私はずっと後悔し続けることになる。
思いがけなく君平が逝去したという知らせを受けたとき、私はアルバイト先の編集部にいた。あまりにも信じがたい知らせに、私は本心とは裏腹にヘラヘラと笑って愉快なことのように周囲の編集者に叔父の死を告げた。
なぜ、あの瞬間の自分は心にもないそんな言動をしてしまったのか。それほど、私は動揺していたのであろう。
彼がいなくなって、私はどれほど多くの人から「叔父さんのファンでした」と告白されたことだろうか。どれほど偉大な人であったか、不覚にも私は彼を失ってから気がついたのである。
ふと数えてみると、私が『彩花へ――「生きる力」をありがとう』を企画構成して世に出し、それなりの反響を得たのは、君平の予言どおり、もの書きを職業として10年を経たときであった。
1986年の夏の終わり頃から、君平は風邪っぽいともらしていたようだ。11月下旬になって京橋病院に入院した。誰もがちょっとした過労か風邪だと思っていた。それが肺炎をこじらせて12月3日に不帰の客になった。
絶筆となった「おはようどうわ」は、三原山の噴火で島に残されたペットたちのことを書いた「おきざり」と題する話であった。
いかにも君平らしい、最後の仕掛けであった。あまりにあっという間に駆け抜けてしまい、あとに遺された者たちは文字どおり〝おきざり〟にされた気分で、狐につままれたように立ち尽くすしかなかった。
そして、彼が私の依頼に応じて書いたエッセイもまた、実質的な絶筆となったのである。
『この頃』と題するエッセイの最後を、彼は不思議にもこんなふうに綴っている。
「何も欲しいものが、なくなってしまった」
口に出して云えば、こうなるけれど、つくづくと、近頃は思う。
四十六歳で、こんなことを、ぼんやりと、考えていいのだろうか。
「でも、ちゃっかりと、いちばんいいものを、手に入れているじゃないか」
だから、他に何も求めなくなっているのかもしれない。
小さなノート一冊で、こんなにも、自分の中で変化が起きるものだとは思いがけないことだった。
もし、もっと、もっと、楽しい嬉しい言葉が、自分に書けるのなら、ながいきしたいと、思う。
遺された家族にとっての君平。兄妹にとっての君平。友人にとっての君平。それぞれにそれぞれの東君平があり、大切な思い出があるにちがいない。どれが濃く、どれが薄いというものはない。
外国に連れて行くという約束は守られなかったが、私もまた、生まれてきた甥っ子を舐め回すようにかわいがってくれた叔父がいたことを、今は幸せに思う。
そしてまた、背負ってきた人生も文化も異なりながら、私の背骨の奥深いところには、早世した彼からたしかに目には見えぬバトンを受け取った覚悟のようなものが眠っている気がするのである。
それは、まだ何の分別もなかった23歳の私に「君の好きなようにしていい」と絶筆を託してくれた、あの瞬間に手渡されたのかもしれない。
(2006.12.3)