2006年10月31日火曜日

真剣勝負







 私は、人とつき合うのが不器用な子どもであった。小学校時代も中学校時代も、級友や教師から誤解されることが多く、イジメの対象にされた時期もあった。その頃は家族との間合いにも呻吟していたから、苦しい心の内を誰にも打ち明けることができないままにいた。
 だから、思いもかけず東京の高校に合格したとき、これで過去の自分を誰も知らない場所で人生をやり直せると、内心で喝采した。

 ところが、下宿生活をして新しい環境に移ったのに、私はやはり人間関係で行き詰まってしまった。
 素晴らしい先輩たちにめぐり合えた反面、同学年の下宿仲間の間に私への中傷が広まりはじめた。その発信元が身近にいる友人たちであったことを知って、ほとほと自分の宿命から逃げ切れないことを思い知った。3月になったある夜、冷蔵庫の私の牛乳に、誰かが腐ったジュースを入れていた

 友人の些細なイタズラが、何かをプツンと断ち切った。生まれてはじめて、私は自ら命を絶つことを考えた。一晩中まんじりともせずにいた私は、とうとう未明に下宿を飛び出した。
 まだ暗く寒い夜明け前の空の下で、かわいがってくれた先輩に心の中で別れを告げようと、しばらくその人の下宿の階段に座って、悶々とする心と対峙していた。さて、どうやって死のうか考えた。

 その刹那である。唐突に、「死んだら、あの人が悲しむぞ」と、もう一人の自分の声が聞こえたのである。あの人とは、学校の創立者のことだった。
 それにしても、なぜその人なのか自分でも理解できなかった。個人的なつき合いがあるわけでもない遠くの存在にすぎない人である。しかし、不思議なことに「そうだ。やめよう」と、気が変わった。私は忍び寄っていた死魔を払いのけた。

 それから何年も経って成人したのち、ある日、私は「あっ」と立ちすくんだ。私たちの入学式に寄せられた創立者の祝辞の一節一節が、まるで記憶の深海から浮上するように、突然頭の中に蘇ったのである。
 〈目先のことに一喜一憂してはならない〉〈自分や他人の命を奪ってはならない〉――そこには懇々と、忍耐強く生き抜くことが語り尽くされていた。

 入学式に臨んだ当時の15歳の私には、その祝辞の意味など咀嚼できていなかった。しかし、その言々句々はわれと気づかぬうちに、生命の深い海底に確かな錨を打ち込んでいたのであろう。
 日が経って、私が嵐の波浪に翻弄され、流され座礁しかけた、絶体絶命と思われた一瞬に、その深海の錨は頑丈な鎖をピンと張って、私という船を繋ぎ止めてくれたのである。

 自死を思いとどまったあの日から四半世紀ののち、私はその母校の卒業式に招待していただいた。
 すでに70代半ばになられた懐かしい創立者の姿が、そこにあった。来賓はじめ、在校生や父母など千余が埋め尽くす中、祝辞の中で創立者は「わが学園では、イジメや暴力は絶対に許さない」と言及されはじめた。

 そして、イジメが人間としていかに卑劣かを語られたあと、あらためてイジメや暴力を許さないことを皆で決議しようと、卒業生と在校生に向かって賛同の挙手を求められた。
 全員が手を挙げたかに見えた。すると、創立者は「今、手を挙げなかった人、立って」と場内に尋ねたのである。一人か二人の、ちょっととんがった風な男子が、気圧されるように立ち上がった。

 創立者は、その少年の一人にじっとまなざしを注いだ。少年は、黙って立っている。外国の賓客も居並ぶ式典が、一瞬しんと凍りついた。
 「なんだ。君は文句があるのか?」
 創立者は、凄まじい気迫で少年に向かってグッと身を乗り出した。今にも、壇上から降りて行かんばかりの、男と男のぶつかり合いだった。

 はねかえりの息子に向かって立ち向かう厳父のごとき一喝に、少年は「いいえ」と礼儀正しく頭を下げた。「いいよ。座って。君とは、またゆっくり話そうな」。
 私は、あとにも先にも、あの瞬間ほど真剣な人間の気迫を見たことがない。世の中には絶対に許してはならないことがあるのだと、命がけで若い魂に教えこもうとした、真剣勝負の教育の場面だった。そして、つくづく私たちはよい学舎に集えたのだと胸を熱くした。

 雪崩を打ったように露見する学校でのイジメ問題。児童生徒が自ら命を絶ち、教員が自殺をする。追い打ちをかけるように、全国の高校での意図的な履修漏れが発覚している。
 いつしか「なんのため」を見失った教育の漂流を見る思いがするのは、私一人ではあるまい。
 教育は、一国の興亡を決する。
 そして真剣勝負で蒔かれた種は、必ず若い生命に根ざし、花を咲かせていく。

(2006.10.31)