2014年11月1日土曜日

アショーカ王の獅子






 デリーから1時間ほど国内線に乗って、ガンジスの街・バナラシに着いた。

 着陸態勢に入った飛行機の窓からは、収穫期を迎えた一面の小麦畑の中に、白い煙をたなびかせるいくつもの簡素な煙突が見えた。刈り取った藁を焼いて肥料にするための炉だと、あとから知った。

 現地ドライバーのディプ君の運転で、バラナシ郊外のサルナート遺跡に向かう。街はずれの道路脇にあるレンガ積みの建物は、まだ建設中か取り壊し中にしか見えないのだが、どうやらどちらでもなく、そこで人々が暮らしを営んでいるようだった。

 サルナートは釈尊が最初に法を説いた「初転法輪」の地として、インドに於ける仏教の四大聖地になっている。バラナシの地名は法華経方便品にも「思惟是事已。即趣波羅奈(このことを思惟しおわって、すなわち波羅奈におもむく)」と登場する。

 バラナシ訪問で私が一番の目的にしていたのは、遺跡に隣接するサルナート博物館に所蔵されている有名な「アショーカ王の獅子柱頭」を見ることだった。四方を向いた4頭のライオンの像が刻まれた石塊で、もともとは高さ14メートルの石柱の頂部に据えられていたものだ。

 マウリヤ朝第3代のアショーカ王は、紀元前3世紀にインド亜大陸をほぼ統一した。当初は「暴虐のアショーカ」と言われるほど冷酷な征服者として版図を拡大していたが、東部のカリンガ国を征服した際に10万人の犠牲者を生んだことを悔恨し、仏教に帰依して、非暴力を掲げた「法(ダルマ)による統治」の実現者へと生き方を一変させた。

 この「法(ダルマ)」とは特定の宗派的教義ではなく、アショーカ王自身の定義によれば「慈愍、施与、真実、清浄、柔和、善良」であり、「あらゆる生命に対する不殺生・不傷害」、「他者への礼節」、「自己規律」という実践項目であった(参照『アショーカ王とその時代』山崎元一著)。

 アショーカ王は、みずから仏教史跡を巡礼して釈尊を顕彰する事業をおこなう一方、各地に法勅を刻んで官吏や民衆に「法(ダルマ)の実践」を奨励した。また自身は仏教徒であったが信教の自由を認め、街道に街路樹を植え、人間や動物のための医療施設を整備するなど、その政治において仏教の精神である寛容と非暴力を体現することに挑戦した。

 理想的な統治者としてインドはもちろん仏教伝播の地で古くから讃えられ、中国浙江省にも3世紀に建立された阿育王寺があるほか、日本の明日香村の名の由来の1つともされている。欧州統合の父リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーも、人類史でもっとも偉大な為政者としてアショーカの名を挙げていた。

 第二次世界大戦後、インドはイギリスからの独立を果たしたものの、独立運動の渦中から表面化していたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が激化する。1947年、イスラム教徒の多く住む地域がパキスタンとして分離独立。翌年には、イスラムとヒンドゥーの融和を訴えていたマハトマ・ガンジーが、ヒンドゥー至上主義者の凶弾に倒れた。

 ガンジーの盟友でインド初代首相であったジャワハルラル・ネルーが、新憲法の制定を経て共和制のスタートにこぎつけるのは1950年1月のことである。

 このインド共和国の出発にあたって、ネルーが「国章」として制定したのが、サルナートの獅子柱頭を図柄化したものだった。また、その3年前に制定されたインド国旗は、ヒンドゥーを意味するサフラン色とイスラムを意味するグリーンが調和を意味する白地を挟み、その白地の中央に「アショーカ・チャクラ(転法輪)」が描かれている。この法輪も、サルナートの獅子柱頭に刻まれているもので、まさにアショーカが理念とした〝現実社会に転じられるべき法(ダルマ)〟を意味している。

 ネルーは、2千数百年前のインド統一の王アショーカに深い敬慕を寄せる心情を、獄中で綴った著書『インドの発見』に記している。そして、共和国の紋章に獅子柱頭の図柄を採用したことについても、こう述べた。

 「今もインド中至る所に、アソカ王が二千年以上前の人々に『正しくあれ』『忍耐強くあれ』等々と呼びかけた碑文を記した大きな塔碑がみられます。(略)私共は今日の新しい動的な我がインドに於いてこの象徴を忘れたくなかったのです」(『自由と平和への道』井上信一訳/社会思想研究会出版部)。

 その国旗と国章に染め抜かれたアショーカ王の「法による統治」「非暴力と寛容」の理想は、21世紀の大国となりつつあるインドにおいて、いかに復権されるのであろうか。