秋の気配が漂いはじめたある夕方、日本橋の高島屋で開催されていた「追悼 山崎豊子展」を見てきた。
山崎さんは1924年(大正13年)、大阪・船場に生まれた。生家は嘉永年間から続く有名な老舗の昆布屋、小倉屋山本である。1944年(昭和19年)に毎日新聞大阪本社に入社し、終戦の年である翌45年に学芸部に配属。副部長であった井上靖から文章の薫陶を受けている。
展示では、実家をモデルにした1957年のデビュー作『暖簾』、吉本興業の創業者をモデルにして第39回直木賞を受賞した『花のれん』から、絶筆となった『約束の海』まで一作ごとにコーナーが作られていた。
出口のところに何冊かの関連書籍が販売されていたので、52年間も山崎さんの秘書をしてこられたという野上孝子さんの著書『山崎豊子先生の素顔』を買った。帰りの地下鉄で開いて読んでみると、展示の各コーナーに掲げられていた要を得た説明文が、じつはこの野上さんの著作からの抜き書きであったことに気づいた。
山崎さんといえば、言うまでもなく医学界の暗部を描いた『白い巨塔』、元大本営参謀を主人公に商社の世界を舞台にした『不毛地帯』、中国残留孤児の半生を綴る『大地の子』、日航機墜落事故から生まれた『沈まぬ太陽』など、骨太の〝社会派〟小説を次々と世に送り出してきた大作家の印象がある。
しかし、あの展示を見たあとで野上さんの回想録を読むと、これまで一読者としての私の知らなかった新鮮な山崎豊子像が見えてきた。
乱暴な男言葉で秘書を怒鳴り上げるかと思えば、端正なイケメンには弱い船場の「いとはん(お嬢さん)」であったりする。プライド高く、世界を飛び回る豪胆さを備えた反面、傷つきやすく繊細で謙虚な人でもあった。
なにより感じ入ったのは、かつて山崎豊子さんが見舞われた〝盗作騒動〟の経過である。
1966年に『白い巨塔』が映画化され、67年夏からは『続白い巨塔』の連載もはじまった。ところが68年2月、やはり月刊誌に連載中だった『花宴』に、レマルクの『凱旋門』邦訳と酷似した部分があると朝日新聞が報道した。
しかも〝盗作騒動〟はそれで収まらず、他にも芹沢光治良や中河与一の小説との酷似も指摘された。これによって山崎さんは文藝家協会に退会届を出さざるを得ない状況に追い込まれる。
新聞には丹羽文雄会長の「山崎氏が今後筆を断つことが望ましい」「文壇的生命は一応終わったと考えられる」という非情なコメントが報じられた。
この騒動の真相がいかなるものであったのか、今の私には確かめる術もない。ともかく、それでも山崎豊子という作家は屈しなかった。
69年、銀行を舞台にした小説の取材に着手する。どの小説の場合でもそうだが、山崎さんはまったく基礎知識のない分野に、徹底した取材で斬り込んでいった。
やがて『華麗なる一族』というタイトルに決まるこの小説は、神戸に本店を置く地方銀行の頭取が、金融再編成に乗じて〝小が大を食う〟形で大銀行との合併を果たそうとする物語である。
そのためにはどんなカラクリを考えればよいか。驚いたことに、そのアイデアを絞り出したのは、取材に協力した某財閥系銀行の中堅行員たちだったという。
1973年に刊行された『華麗なる一族』は、翌74年には映画化され大ヒットした。野上さんは、これによって作家・山崎豊子が文藝家協会会長からの死刑宣告をようやく乗り越えられたと記している。
ところで、2015年になって戦時中の山崎さんの日記が発見されたという報道があった。今回の展示では、大阪大空襲で実家が焼失した日のことなどを綴ったその日記も公開されていた。
山崎さんが昭和の歴史と四つに組むような大作を次々に書いてきた原動力には、あの戦争への怒りがある。
回顧録によると、2000年にポツダムの博物館を訪れた際、米英ソの首脳が並んで第二次世界大戦の戦後処理を話し合っている写真を前に、山崎さんは大国の エゴと日本政府の優柔不断さに悪態をつき、ぽろぽろと涙を流した。〝先生は体の芯から戦争を憎んでいる人なのだ〟と、野上さんは綴っている。
山崎さんは、私財を投じて「山崎豊子文化財団」をつくった。中国戦争孤児の子女の奨学助成のための財団である。『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』の 著作権を財団に寄付し、あとは自己負担と銀行借り入れをして基金を用意した。この22年間で奨学金を受けた子どもたちは330人に達した。
私などが評するまでもないが、日本の近代文学史の中で、山崎さんほど肝を据えて「国家」や「社会」と向き合ってペンを振るった小説家は、あるいは他にいないのではないかと思うのである。