2015年12月1日火曜日

光悦の黒楽茶碗




 京都国立博物館で開催されていた「琳派 京を彩る」展に足を運んできた。

 2015年は〝琳派400年〟ということで、各所で琳派に関する展覧会などが相次いだ。本阿弥光悦が1615年(元和元年)に徳川家康から京都の鷹峯に土地を拝領し、そこに芸術村を開いたのが琳派の誕生とされているからだ。

 ただ、この土地拝領の伝承は、光悦の孫・光甫が編纂した『本阿弥行状記』に記されているものの、光悦が町衆だったためか幕府の公式記録『徳川実記』には出てこない。研究者や専門家の中では、行状記は身内の記録であって厳密には第一次資料と見なせず、本当に土地が下賜されたのかどうかは疑問符がつくという意見もある。

 さて、書蹟、絵画、陶芸、工芸と見ごたえ十分だった展示の中で、今回ひときわ私が心動かされたのは、『雨雲』という銘を持つ黒楽の茶碗であった。古くから北三井家に伝わってきた光悦の黒楽茶碗の代表作。重要文化財に指定されている。

 轆轤(ろくろ)を使わずに手とヘラだけで成形されたどっしりした楽茶碗で、釉薬のかかっているところと地が露出しているところがある。そのかかっていない部分に火間と呼ばれる焼け紋様が斜めの線で現れているのを、雨に見立てて雨雲と名づけたのだろう。たしかに、深い黒雲から驟雨が降り注いでいるかのようである。

 以前に東京の五島美術館で、やはり光悦作の『十王』という銘の赤楽茶碗を見たことがある。十王とは地獄の閻魔大王のこと。そして、今度この『雨雲』を目の前で見て、私はほとんど反射的に、これは〝三草二木の譬え〟の雨雲ではないだろうかと思った。

 法華経には七つの譬え話が登場するが、三草二木は薬草喩品の中で釈尊が語る譬え話である。三草とは、小さな草、中くらいの草、大きな草。二木とは低い木と高い木。つまり、地上にいきづく多様な植物のありようを指している。

 そこに全世界を覆う大雲が発生し、地上に等しく雨を降らせていく。巨大な雲とは仏の出現であり、等しく降る雨とは仏の説法を意味している。その雨を受けている草木の多様な差異は、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界と、境涯の異なる弟子たちのメタファーである。

 本阿弥光悦は熱心な法華宗徒であり、光悦の率いる芸術集団は信仰で結ばれた仲間でもあった。鷹峯の光悦村では常に唱題(題目を唱えること)の声が途切れなかったという。

 光悦は当然、薬草喩品の〝三草二木の譬え〟を知っていただろうし、それは一定の教養を持つ当時の文化人たちの共通了解でもあったはずだ。その場合、茶碗の銘である「雨雲」とは、この世界に出現する「仏」そのものということになる。

 もちろん、私の思いつきはあくまで思いつきの域を出ないのだけれど、茶席で客人が手にした黒楽が〝三草二木〟の大雲であったなら、そこから口に流れ込む茶は仏の教説ということになろう。

 ところで、そもそもこの法華経薬草喩品の〝三草二木の譬え〟は何を意味しているのか。多様な植物たちは同じ大地に生じ、同じ雲から等しく雨を受けながらも、どのように水を吸収し成長するかはそれぞれの特性によって異なるのである。

 このことは、2つのメッセージを内蔵している。

 1つは、衆生の側にさまざまな資質や能力の差異が存在すること。ある者は煩悩から逃れることを望み、ある者は利他に生きることを自分の目標とした。だからこそ仏はその差異を敏感に見極めて、個々に応じた教えを説いてきたのである。

 もう1つは、けれども仏の真意はそれら声聞や菩薩をめざさせる教えに留まるものではなく、万人を自分と等しいブッダへと至らせる〝一仏乗〟の思想なのだという宣言である。

 地上を覆う大雲がただただ雨を降らせているのは、仏は本来〝一仏乗〟のみを説こうとしていることのメタファーなのだ。そして、「誰もがブッダになれる」という、それまでの仏典からすれば驚天動地の思想が、この法華経で説き明かされていく。 

 では、師匠は絶えることなく平等大慧の雨を降らせているのに、なぜ弟子の側の草木には伸び方に差があるのか。〝三草二木の譬え〟は、じつはそこを衝いている。

 それはひとえに、衆生の側が何を自分の到達点と定め、何を誓願しているかによる。人は誓願によっていくらでも大きく飛躍するし、誓願した分しか伸びることはない。このことは、学問でも芸術でもスポーツでも、およそ人間が自らを練り上げ、なにごとかを成し遂げようとする上の冷厳な真理であるように思う。

 群雄割拠から関ヶ原、徳川幕藩体制という大動乱の時代。光悦もまた、なにがしかの大いなる誓願を胸中に燃やして生き抜いたのであろう。