2015年9月1日火曜日

敦煌の兄弟




 私たちは3時間近くも砂漠の真ん中で取り残されていた。外気温はマイナス20度。周囲は見渡すかぎり荒涼とした岩砂漠が続く「ゴビ灘」である。

 2014年12月下旬、2人の青年と一緒に2週間をかけて中国を旅した。北京から西安、さらに甘南チベット自治州夏河県、蘭州、敦煌と奥地に入っていく。西安を発つ未明にひどい風邪をこじらせ、その身体で標高3200メートルの夏河に入り、長距離バスで蘭州に下り、夜行列車で極寒の敦煌に至るという過酷な日々だった。

 旅の最終盤、明日はもう敦煌を発って北京に戻るという日。予定していた最後のスケジュールとして甘粛省雅丹国家地質公園まで足を延ばした。ここは別名を「敦煌魔鬼城」という。敦煌の西180キロ、公園といっても風によって古い地層が侵食された、奇岩怪岩の景色が視界の彼方まで続く土地である。

 まだ暗いうちから起き出し、同道の青年たちと近所の食堂で小豆粥を食べる。日本のお汁粉に近い。青年の1人は北京留学中で中国語が操れる。

 ホテルのロビーで待っていると予約したバンが迎えに来た。先客が2人乗っていて、北京から来た女子大学生だという。バンの運転手は四角い顔をした小柄な中年男性だった。

 出発して1時間半。100キロほど走った玉門関の手前でようやく背後から日が昇り始める。東部の北京時間が使われているので、時計だけは午前8時半になっている。

 玉門関は漢代以来の国境の砦だ。古い時代の万里の長城の西端である。車を降りると、たちまち青年たちの長い睫毛が凍った。

 それから再び車で北西に走り、雅丹国家地質公園に着いたのは昼前だった。

 真冬の時期で外国人旅行者はほとんど見当たらない。むしろ中間層が豊かになったことで、中国国内の観光名所に押しかけているのはどこも中国人が多い。

 見学用のバスに乗り換え、2時間ほどかけて広い域内を回り、元の入場ゲートに戻る。時刻は午後1時を過ぎていたが、レストランも営業しておらず、私たちと女子大生の計5人は駐車場で待っていた往路のバンで敦煌に帰ることにした。

 四角い顔の男のアクセルの踏み方が往路より慎重になっている。というのも地質公園に到着するまさに直前、エンジンに不具合を起こしていたからだ。公園を出発して30分ほど過ぎた頃、彼が舌打ちをして深いため息をついた。ゴビ灘の中を地平線から地平線まで一直線に伸びた道路の真ん中で、私たちの乗ったバンは不意に止まってしまったのである。

 彼はしばらくボンネットを開けてあれこれ触っていたが、あきらめたのかどこかに電話をかけていた。空調も止まったので車内の換気が利かない。外に出ると冷気で顔が痛い。

 乾いた石ころが地平線まで続く、まるで別の惑星のような景色の中に立って、私はそこが音のない世界であることに気づいた。日本まで伝わった仏教は、こんな過酷な場所を通ってきたのだと今さらながら実感した。

 3時間少し経った頃、敦煌市内から1人の中年男性が別のバンで救援にやって来た。彼らは私たち旅行者をその古びたバンに移すと、見るからに頼りない細いロープで2台の車を結び始めた。一刻も早く乗客を敦煌に返すかと思ったら、私たちを移した車で故障した車を牽引していくつもりなのだ。

 ここから敦煌市内まで、まだ150キロはあるだろう。四角い顔の男はそのまま故障したバンの運転席に留まり、牽引されていくあいだハンドルとブレーキを操るらしい。

 ほどなく右手の地平線に太陽が赤々と落ちていった。考えれば早朝に小豆粥を食べたままである。砂漠での凍死を免れたものの、私はさすがにうんざりした気分で、他の車の半分ほどの速度で流れていく日の暮れた車窓を眺めていた。車内の誰もが黙り込んでいる。午後7時近くなってようやく敦煌の街灯りが遠くに見えたときは、往古の旅人の心持ちを思わずにはいられなかった。

 最初に着いたのはシャッターの降りた修理工場の軒先だった。そこに壊れた車を置いていくらしい。牽引されていた運転席から降りて私たちの車に移ってきた四角い顔の男は、哀れなほど憔悴しきっていた。暖房のつかない極寒の車内で歯の根を震わせながらハンドルを握り続けていたのだろう。

 しかし先に下車することになった女子大生2人は、なにやら彼の不手際をなじり、本来のツアー代金を下げさせた額を手渡して去って行った。

 ややあって私たちが下車する段、同道している青年が男と中国語でやりとりをしたあと「約束どおりの代金を払ってあげたい」と私に告げてきた。本当に申し訳なかったと男が謝っているという。中国人がこんなに素直に謝っているのは稀なことらしい。

 救援を呼んだことでこの日の仕事は丸損になっただろうと思いながら、私たちは当初の額を彼に支払い、「謝謝」と告げて車を降りた。

 すっかり夜の帳が降りた敦煌の街で、なにはともあれ空腹を満たそうと、灯りのついていた小さな食堂に入る。2組の地元の人たちが食事をしていて、料理を出し終えた若い店主の男と、その弟と思しき店員が、据え付けてあるテレビから流れるCGたっぷりのアクション映画を観ていた。

 店の中央には大きな石炭ストーブに火が熾って、薬缶が3つと炭鋏が載っている。客用のトイレはなく、小用を借りたいと言ったら、厨房の奥のトイレを貸してくれた。

 私たちが何品かを注文すると、兄弟は黙ったまま厨房で食材をそろえ始めた。粗末にしか見えなかった厨房は、よく見ると真ん中に大きな調理台が置かれていて、その天板はピカピカに磨かれている。2人は阿吽の呼吸で、何種類もの野菜や肉を切り、儀式のようにきちんと整え、丁寧に小皿に分けて準備していく。

 噴き上がる火に向かって兄が次々に料理を仕上げ、弟がその皿を運んできた。主に四川風の料理はどれも美しく風味豊かな絶品で、さっきまで私の身体に沈殿していた重い疲れが気化するように消えていくのがわかった。

 最後に「これはサービスだ」と言って鉢に入ったトウモロコシのスープを出してくれた。それから兄弟はストーブのそばに出てきて、兄は空いた席に座り、弟は立ったまま、元のように黙ってテレビを眺めはじめた。地元の客は帰り、店にいるのは私たちだけである。

 どこにいたのか、4歳くらいの女児が店主の男の膝に上がっていた。女児は抱かれながらなにごとかを男に話し続ける。無表情だった男の顔は、優しい父親のそれに変わっていた。

 男は囁くような声で娘に「おまえは敦煌人と四川人のあいだに生まれた。半分は四川人だから美人なんだね」と言った。すると女児は強い調子で、ちがう自分は敦煌人だと父親に言い返した。男は声を出して笑った。

 背の高い弟のほうに勘定を払いながら、私は青年に中国語で「とてもおいしかった」と伝えてもらった。彼は愛想笑いもせず黙ったまま釣銭を返してきた。

 2週間の旅のあいだ、いくつもの土地をめぐり、貴重な歴史の文物に触れ、あるいは最新の豊かさも体験した。どれも新鮮な刺激と発見に満ちていた。けれども静かに思いを凝らすと、私はやはりそこで懸命に自分の人生を歩く、名も知らぬ美しい人々と出会ってきたというほかない。

 そして、あの四角い顔をした小柄な男のすまなさそうな顔と、敦煌の小さな厨房で誇り高く火に向かっていた男のことが、なぜかひときわ思い出されるのである。