2015年8月1日土曜日
記憶の古層
「それでは、中に入りましょう」
若い係官は日本語でそう言うと、持っていた鍵の束で厳重な錠を開けた。
「足もとに注意してください」
狭い入口から、彼が手にしている小さな懐中電灯に導かれて、私たちは薄暗い石窟の中へと足を踏み入れた。
歴史のなかに忘れ去られていた敦煌・莫高窟が、「敦煌文書」の発見によって世界の耳目を集めるのは、19世紀最後の年のことである。
敦煌市街の南東。鳴沙山と呼ばれる砂漠の東端の断崖に、大小700を超える「窟」が掘られている。清朝末期の西暦1900年。第16窟の壁中に隠されていた小さな空間から、5万点とも6万点ともいわれる古文書などが発見された。数がハッキリしないのは、そのほとんどが発見者である王道士によって不当に外国人に売却されてしまったからだ。
この世紀の大発見について、敦煌研究院院長だった段文傑氏は「敦煌文書の多数を占めるのは仏教経典である。そして、経典中最も多いのが『法華経』なのである」(中国敦煌展図録/1985年)と述べている。
莫高窟に最初の窟が開かれたのは4世紀後半。そこから元の時代まで、1000年間、造営が続いた。
歴代王朝にとって、敦煌は西端の軍事拠点であると同時に西域交易の拠点でもあった。敦煌は最果ての砂漠の街というよりも、西域や中東、地中海、ローマから、いち早く情報と文物が入ってくる最先端の土地だったのだ。中国の絹を求めて、さまざまな民族の商人も往来していたのだろう。一帯の遺構からは大量の絹製品が発掘されている。
その敦煌が廃れていったのは、アラブやヨーロッパとの交易ルートが圧倒的に海路になったこと、インドや中央アジアがイスラム化して、そこから仏教が姿を消したことが大きい。敦煌の東側にある嘉峪関が16世紀に閉鎖されると、訪う人も途絶え、莫高窟は砂漠の砂に半ば埋もれていった。
今日、世界遺産としての敦煌莫高窟があるのは、文字どおり命がけの苦闘で復元と保全に生涯を捧げた、敦煌研究院創立者の常書鴻氏らの功績というしかない。
懐中電灯で導かれた窟の中は、思ったより広く天井が高かった。
正面と左右に、やや大きな仏像がある。左が燃燈仏、正面が釈尊、右側が弥勒菩薩だと、係官が説明してくれた。壁と天井には小さなブッダの絵が、びっしりと描かれている。全部同じデザインで、それこそ「千仏」の名のとおり本当に1000個あるのではないかとさえ思われた。
私が「これは法華経の序品ですね」と尋ねると、係官は少し嬉しそうに「そうです」と応じた。
序品に登場する燃燈仏は、長遠な過去に出現した日月燈明仏の息子。釈尊は過去世においてこの燃燈仏を師として修行をしたことになっている。また弥勒菩薩は釈尊の弟子であり、長遠な未来においてブッダとなる存在である。
師弟連綿の3体の仏像は、「過去」も「現在」も「未来」も衆生に法華経を説き続けるブッダを意味している。壁と天井の千仏は、宇宙の十方の国土にブッダが出現することを表している。この窟に籠って瞑想する修行者は、時間的に永遠で、空間的に無限の「仏の生命」に包まれる自分を実感したことだろう。
莫高窟では、他にもいくつかの窟を見せてもらった。描かれた壁画のうち、早い時期のものは中国の神話と仏教的なものの融合が見られる。
やがて仏教は〝異教〟の立場から中国の宗教へと受容が進み、隋唐時代に入ると壁画でも経典の物語そのものが扱われている。そして、唐代の繁栄に陰りが見えると、西方浄土を欣求する思想へと移ろっていく。
私は帰国したあともずいぶん長いあいだ、いったい自分があの場所で見てきたものは何だったのだろうかと考え続けていた。
東京からはるばる、遠い地の果ての、千数百年も前の遺構を訪ねていったはずなのに、私には遠くに行って昔のものを見たという感覚があまりないのである。
では、自分はどこに行っていたのか。私は私という生命の見たこともなかった深部にまっすぐ潜行して、内なる何かに触れて再び戻ってきたというしかない。
人類史にとって、敦煌はまさしく遠い〝記憶〟である。実際、砂漠の果てに忘れ去られていたものが、ふとした拍子に忽然と浮かび上がってきた。
だが同時にそれは今を生きる人類の、少なくともユーラシアの人々一人一人の、生命の深いところに沈積する記憶の古層でもあるだろう。私たちが知ろうと知るまいと、私たちの記憶の深いところには壮大な思想が沈んでいる。
政治や経済の結びつきばかりが語られがちだが、だからこそ、共有する深部の記憶に思いをめぐらすことが必要な時代に入ってきている。