2015年6月26日金曜日

加害者の「手記」を読んで






 1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件の加害者が、「元少年A」名義で手記を出版した。かつて山下彩花ちゃんの遺族の手記出版にかかわった者として、やはり目を通さないわけにはいくまいと思い、発売翌日に読んだ。

 感想は「とてつもなく残念だ」というほかない。

 遺族のうち、土師守氏は早々に「遺族の人格権を侵害し、重篤な2次被害を与えている」ものだと非難して出版社に回収を求める声明を出した。山下京子さんは実質的に10日余り沈黙を守っていたが、「元少年Aや出版社の人たちと同じ土俵に立ちたくない」として「今回の一連の騒動が、一日も早く良い形で収束すること」を願うと文書で表明した。

 山下さんは、出版の事後になって弁護士事務所に送られてきた加害者からの手紙についても、「B5用紙にほんの10行ほどが印字されており、まるで本の送付書のようでした。これまで来ていた手紙とは内容も性質も大きく異なるため、受け取る気持ちになどとてもなれませんでした」と述べている。

 私の周囲も含め、世の中の反応は、手記の中身を自分で読んだうえでの内容への批判よりも、あの事件の加害者が自身の犯罪にまつわる書籍を出版したことそのものへの感情的な反発と非難が圧倒的に多いように思われる。

 遺族の中に、どのような内容であれ出版など受け容れられないと考える方がおられるのも、それはそのとおりだろう。一方で、たとえば山下さんはこの3月に加害者から11通目となる謝罪の手紙を受け取った時点では、少し違う考えを持たれていた。

 手紙からは加害者が罪過に打ちのめされている様子がうかがえるとして、「彼の生の声が社会に伝われば、罪の意識にさいなまれている普通の人だと分かり、事件を起こそうとしている人への抑止力になるかもしれない」(共同通信)と語っていた。

 じつは私も、加害者が医療少年院を出て以降、どこかのタイミングであるいは彼自身が語ることが必要なのではないかという思いは持っていた。

 理由の一つは、あれほどの社会的事件が、真偽不明な第三者による膨大な言論だけで好き勝手に語られ、その結果、何が真実なのかわからないままに終わることが、はたしてよいのかという疑問があったこと。

 もう一つは、とくに彼が30代に入って以降だが、それはつまり当時の同世代の少年少女たちが今度は子供を生み育てる立場になった中で、加害者自身によってなんとか〝人間への信頼〟を少しでも取り戻すことへの献身ができないものかという可能性を考えていたからである。

 ただし、それらを可能にするためには加害者自身の相当に深い自己対峙と人間観、言葉の力が不可欠であることは言うまでもなかった。しかも、仮に社会が許容し肯定してくれるような書物に練り上げることができたとしても、やはり遺族を苦しめてしまうことは避けようもない。

 結局、私は自分が遺族とかかわった人間である以上は、その双方を天秤にかけることはできないと考えて、何か働きかけるようなことはしなかった。

 出版された手記を読んで本当に残念だと思ったのは、この本が加害者本人による「自分の物語」の独白ではあり得ても、自分がもっとも苦しめた相手である被害者と遺族への応答も、社会への応答も欠いたに等しい、きわめて一方的なものでしかなかったことである。

 手記の末尾で彼は遺族に向けた一文を書いている。沈黙して生きることに「とうとう耐えられなくなってしまいました」と述べ、「本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした」と詫びている。

 それならばどうして、せめて社会にとって意味と救いのあるものを書こうと挑まなかったのかと、私は心底から腹が立つ。そうしなければ自分が耐えられないから、やりたいようにやったというだけでは、14歳の時と同じではないのか。

 これほど長い時間を与えられていて、なぜもう少し人間というものへの洞察を深めようとしなかったのか。なぜ今回もまた他者が生きていることへの想像力を欠いているのか。なぜ希望を寸分でも紡ぎ出そうと考えないのか。

 信じて待っていた人々に、再び、しかも今度こそ修復し得ないだろう深手を負わせて、彼の手ですべてを打ち壊してしまった。誰も救われない、最悪の結末である。

 報道によれば、彼は2年半も前から出版関係者と接触し、作業を開始してきたという。紆余曲折の末にこのたびの版元からの出版となったそうだが、この本にかかわった出版人たちに、少なくとも彼が出す書籍がこの程度の未熟なものであることは許されないという判断がつかなかったのかと、その点も甚だ残念でならない。