2015年3月13日金曜日

北京のデジャヴ






 北京中心部の北側を東西に走る北四環中路は、夕方ということもあり予想どおり大渋滞だった。左手には北京五輪で有名になった通称「鳥の巣」、国家スタジアムが見える。

 私たちは北京大学など多くの名門大学が並ぶ海淀区でタクシーを拾い、朝陽区にある「北京知日文化伝播有限公司」に向かっていた。同社は月刊誌『知日』を出す出版社で、この日は董事長兼編集長である蘇静さんに会うことになっていた。

 ノロノロとしか進まない車中のカーラジオからは、年配と思われる男性の演説のような一人語りが延々と流れている。やがて、この日の通訳として同乗してくれている日本人留学生が苦笑しながら、それが日本批判の番組であることを教えてくれた。総選挙で安倍政権が大勝した翌々日であったことも無関係でなかったのかもしれない。

 通訳の彼は腕時計をチラリと見てから慢性化する北京の渋滞を嘆き、蘇静さんとの約束の時間までには十分間に合うはずだと言った。動かない車の列を眺めながら、私が「君が生まれた1980年代後半の東京の渋滞もこんな感じだった。時には歩くほうが早いほど、電車で2駅、3駅の距離が1時間というのはざらだった」と返すと、彼は驚いた様子だった。

 民間の大手出版社で編集者をつとめミリオンセラーも出していた蘇さんが、日本をテーマにした雑誌『知日』を創刊させたのは2011年1月のことである。あの尖閣での漁船衝突事件から100日余り。中国の各都市で大規模な反日デモが起き、日系の企業や店舗が略奪に遭うなど、日中間が緊迫する渦中のことだ。

「自分のやろうとしていることと政治的問題は何の関係もないことだと思っていた」

 お会いした蘇静さんは、私にそう言った。

 彼の『知日』が成功した大きな理由は、中国の若い編集者たちが、あくまでも自分たちがおもしろいと感じたまま自由に「日本」を切り取っているからだ。読者もまた10代後半から30代前半の層である。いわゆる親日ということとは違う。日本を知るということそのものを、編集者も読者も楽しんで消費している。

 湖南省の田舎で育ったという蘇さんは、朴訥とした風貌ながら、経営者としても編集者としても優れた嗅覚と行動力を持っている。『知日』は毎号ヒットし、ほどなく彼は古巣の出版社に話をつけて独立し、新たに『知日』を自前で刊行する権利を得た。

「日本人には、中国は多面的だということを知ってほしい。日本を批判する人もいれば、日本の文化や日本人の感性を愛してやまない人もいる。これらの人々は知的にも文化的にも、まるで別世界で生きている」

 こじんまりした彼の個室。本棚の中央には剣道の面が飾ってあった。われわれ日本人にはちょっと出てこない発想だが、いざそのように飾られてみると、とても収まりよく部屋の雰囲気を作り出していた。

 2014年暮れの北京で、私は何度もデジャヴの感覚を味わった。真新しいモールに軒を連ねる高級ブランド店。髪を刈り上げ、肩パットの大きく入った黒いコートを着て、そのブランド店の出入り口に立つドアマン。少し前まで、そんなブランドの名前すら知らなかったのではと思うような、まだ雰囲気が馴染まない若い客たち。それらは私が20代半ばだった昭和終盤のバブル期の東京そのものの光景だった。

 地方都市である西安では、もっと以前の昭和40年代から50年代に、たしかに自分が見たと思うような懐かしい感覚が身体にまとわりついていた。何がと言われると難しいのだが、それはデパートのエスカレーターを降りた一瞬だったり、ワゴンセールの呼び込みをする店員だったり、バス停に並ぶ人々の表情だったりさまざまで、古い記録映像の中に迷い込んだような気分だった。

 そのデジャヴを噛みしめながら、私は〝その後〟の日本が歩いてきた道のりのことを考えていた。当時の日本には、冷戦の終結、昭和の終焉、バブル経済の崩壊が、ほぼ同時期に重なった。

 そこからは〝失われた20年〟と言われるように、たしかに陰鬱で暗い世相が続いた。だが同時に、まるで熱病から醒めたように、人々の視線は徐々に自分たちの内側へと向けられていったと思う。外形的な繁栄が沸点にまで達し、あっけなく弾けて消えて、突きつけられたものは生老病死を免れない人間というものの実相だったのではないか。

 生とは何か。死とは何か。未熟な思考の足元をさらうように、奇怪な宗教が次々に耳目を集めては馬脚を現す現象も続いた。東日本大震災を経験して、人々はなお一層、人間としての真の豊かさと幸福について、考え始めていると私は思う。

 蘇静さんは、中国の人々が日本に関心を持つことの一つの理由として、日本が過去に経済成長を経験して既に長い歳月がたっていることを挙げた。日本の今を知ることは、中国の明日を考えることに通じるのだと。

 北京でも西安でも、蘭州でも敦煌でも、私は中国の人々の変化を感じた。それは旅人の勝手な思い込みなのかもしれないが、人々のまなざしが人間の内側へ内側へと早くも向かい始めている、少なくとも予兆のようなものをたしかに感じたのである。