川崎市で起きた凄惨な中学生殺害事件で未成年が容疑者として逮捕されたことを受けて、与党幹部から少年法を見直す必要があるという発言が出ている。
朝日新聞は自民党の稲田朋美政調会長と公明党の石井啓一政調会長の発言として、こう報じている。
石井氏は、選挙権年齢を18歳以上に引き下げる公職選挙法改正案が今国会で成立する見通しになっていることから、民法改正で成人年齢も引き下がった場合「少年法の年齢を合わせるべきだとの議論も当然起きてくるだろう」と述べた。稲田氏は「少年が加害者である場合は名前を伏せ、通常の刑事裁判とは違う取り扱いを受ける」と指摘。その上で「(犯罪が)非常に凶悪化している。犯罪を予防する観点から今の少年法でよいのか、今後課題になるのではないか」と語った。(「朝日新聞」2015年2月27日付)
まず石井氏が言及した「民法改正で成人年齢も引き下がった場合」は、たしかに法律論としては民法以外の法律との整合性が問われてくるだろう。
一方の稲田氏の発言は、いくつかの点で問題がある。
稲田氏は、加害者が少年の場合に名前が伏せられていることを疑問視し、「(犯罪が)非常に凶悪化している」として、実名公開することがあたかも「犯罪を予防する観点」に効果があるかのように誘導している。
少年法が第61条で加害者の本人特定報道などを禁じているのは、少年期に犯罪に至る背景には養育環境など本人に選別の余地のないことがらが大きく影響しているという考え方と、年齢的に成人よりも更生の余地が大きいことに理由がある。
少年法が第61条で加害者の本人特定報道などを禁じているのは、少年期に犯罪に至る背景には養育環境など本人に選別の余地のないことがらが大きく影響しているという考え方と、年齢的に成人よりも更生の余地が大きいことに理由がある。
論理的には加害者が死刑になる場合を除いて、あらゆる受刑者はいずれ刑期を終えて社会に復帰する。それがどのような背景や理由で犯罪に至ったにせよ、許しがたい犯罪であったにせよ、私たちはひとたび犯罪者となった人間も含めて共々に社会を構成していくことになる。
このあたりまえの前提に立てば、法が定めた懲罰を終え社会復帰した加害者が、できるだけ円満に社会の一員になれて、反社会的な行為を反復しにくい環境に取り込まれていくことが、結果的に私たちの社会全体の大きな安全保障になる。少年法が加害者の氏名などを公表しないと定めている理由も、その更生を後押しする考え方からだ。
アムネスティでも報告されているとおり、死刑制度の有無が殺人発生率に何ら影響を与えていないことは各国で研究発表されており、死刑制度が犯罪抑止に効果的だという科学的根拠はない。つまり厳罰化が犯罪抑止に効果があるというのは科学的エビデンスに欠ける議論なのである。
与党幹部であり弁護士でもある稲田氏が、少年法改正によって加害少年への社会的制裁を強めることをほのめかし、それがあたかも犯罪抑止につながるかのように世論を誘導していることには大きな疑義がある。
それ以上に看過できないのが、厳罰化を求める理由として氏が「犯罪の凶悪化」をメディアに対して語っていることだ。
法務省の出す「犯罪白書」の統計に照らして1960年代半ばから日本での凶悪犯罪が減っていることは、法曹関係者の間では常識的に知られていることだ。厚労省の「人口動態統計」でも他殺による死亡者数は明らかに減っている。
そして、統計の数字に照らして凶悪犯罪数が増えていないにもかかわらず、メディアが常に「凶悪犯罪の増加」を語り続けていることの危うさは、1980年代から社会学者などによって指摘されてきた。
近代ジャーナリズム史の泰斗であった村上直之氏は早くも1986年刊の『社会心理学を学ぶ人のために』(間場寿一編/世界思想社)のなかで、これらを〝マス・メディアと統制機関によって構成される「現代の神話」〟と指摘し、ここから巻き起こされる社会の過剰反応を〝モラル・パニック〟と定義している。統制機関はこの国民のモラル・パニックに便乗して、法律の厳罰化を繰り返してきたのである。
今回もまた、何十年も前から指摘されている「現代の神話」に過ぎないデマを自民党政調会長が平然と口にし、マス・メディアがそれを批判もせずにそのまま国民に報道している。なぜ現場の記者は即座に稲田氏に問い質さなかったのか。現場の記者が不勉強だとしても、なぜデスクはその誤った言説に批判も加えぬまま垂れ流すのだろうか。ジャーナリズムの体をなしていないと言わざるを得ない。
もし稲田氏が「発生件数の増加ではなく、犯罪の質の凶悪化」だと弁明するならば、やはりその合理的根拠を提示せよと問われなければならない。
マス・メディアはセンセーショナルな報道で悲惨な事件を〝消費〟して終わるのではなく、自分たちのそうした不作為が権力の意に沿った「現代の神話」を作り出していることを自覚すべきである。