2015年2月25日水曜日

『リオとタケル』を読む








 ノンフィクション作家・中村安希さんの『リオとタケル』(集英社インターナショナル)は、読み終わってめぐり合えたことに感謝できる、そういう一冊だった。

 リオは中村さんが米国留学時代に演劇について教わった恩師で、タケルはそのリオのパートナー。現在は2人ともカリフォルニア大学アーバイン校で教鞭をとっている。名前で分かるように、タケルは日本人であり、そして両名とも男性である。

 若き日に出会って恋に堕ちたリオとタケルは、それ以来40年近い歳月をパートナーとして生きてきた。中村さんは、本人たちはもちろん、仕事やプライベートで彼らと深く関わってきた周辺の人物たちにもインタビューを重ね、2人の人間像と歩んできた道のり、他者との関係を、複眼的に丁寧に誠実に描き出している。

 「人としてもそうだけど、2人はカップルとしても優れたお手本だと思う。自分の夫婦関係を考えたときに、リオやタケルみたいな関係でいたいって思うから」(『リオとタケル』)

 これは証言者の1人、ハンティントン・シアターカンパニー衣装制作室主任のナンシー・ブレンナンの言葉。

 ただし、リオもタケルも本名ではない。周囲の誰もが敬愛と信頼を寄せ、それぞれの家族も祝福する2人の関係であるにもかかわらず、このノンフィクションをいざ出版するにあたり、彼らや登場する日本人の名前をすべて仮名にせざるを得なかったのは主にタケルの家族のプライバシーへの配慮である。

 家族内では祝福し受け容れることができても、自分たちのプライバシーが〝世間〟の好奇の眼にさらされることは耐え難い。結果的にタケルの日本の家族は中村さんからのコンタクトを拒絶することになる。

 リオとタケルが暮らすカリフォルニア州はリベラルな土地であり、2008年6月に「同性婚」が一旦は合法化された。ところが猛反対する保守派勢力によって住民投票に持ち込まれ、同性婚を禁ずる「提案8号」が僅差で可決され、合法化が取りやめになっていた。

 そのため、この本の取材が始まった2011年当時はカリフォルニア州での同性婚は認められていなかったわけだが、2013年6月26日、米国連邦最高裁は結婚を「伝統的な男女間のものに限る」としていた連邦法「結婚防衛法(DOMA=Defence Of Marriage Act)」を、連邦憲法修正第5条(法の下の平等)に反するとする歴史的な判決を下した。

 この判決を受けて、米国の各州では一気に同性婚を認める動きが加速し、カリフォルニア州はもちろん、2015年1月時点では全米50州のうち36の州で事実上、同性婚が合法化している。(追記:2015年6月26日の連邦最高裁判所判決により全米すべての州で同性婚を禁じる法律が違憲とされた)

 セクシャリティは人種や肌の色と同じように生得的な属性であり、あるいは少なくとも人間の多様性そのものであり、それを理由に特定の人々だけが婚姻の自由と権利を剥奪されているのは社会の重大な欠陥である――というのが、先進諸国で急速に同性婚が合法化されつつある背景の考え方だ。残念ながら日本は、このことに関する認識や議論が著しく遅れている。

 今月(2015年2月)、東京都の渋谷区や世田谷区が一定の条件を満たした同性カップルに〝結婚に相当する関係〟を認める証明書を発行する条例案の提出を検討中と報じられた。行政として何ができるかを地方自治の現場から先行して考えた画期的な一歩だ。あくまで過渡的な一歩ではあるが、議論が全国に広がっていくことを期待したい。

 カリフォルニア州で「提案8号」を出すなど、米国内で同性婚への反対運動を熱心におこなってきたのは主に保守的な宗教勢力だ。米国にかぎらず、世界各地にある同性愛を反道徳的なものと憎悪するまなざしは、多くの場合、硬直した宗教の衣を纏っている。

 ギリシャ神話には、寝台の大きさに合わせて旅人の身体を切り刻んだプロクルステスという強盗が登場する。人間を幸福にするための宗教が、宗教に合わせるために現実の人間を切り刻んでいるとしたら、これほどの本末転倒はない。「何を信じるべきか」を内発的に考えさせようとしない宗教は、「何を愛すべきか/愛してはならないか」についても問答無用で強要してくるのだろうか。

 その意味では、同性婚に象徴される性的マイノリティをめぐる新しい潮流は、社会の歪みを発見し正そうとするだけでなく、「宗教のための人間」なのか「人間のための宗教」なのかという、21世紀の宗教の側に突きつけられている問いなのだとも言える。

 私がいささか不思議でならないのは、人道、人権、福祉といったことに長年さまざまな取り組みをしてきたであろう日本の宗教界が、この世界の動きに対しては、おしなべて驚くほど他人事のような態度で目も口も閉ざし、無関心を決め込んでいることなのだ。