2015年1月15日木曜日

秘儀としての漢字








 1974年3月のこと。中国陝西省西安市の郊外で井戸を掘っていた農夫の鍬が、何か硬いものにぶつかった。土の中から出てきたのは、武具をつけた兵士の等身大の俑であった。俑とは、墓に副葬する人形のことである。

 その場所は秦の始皇帝(BC259-BC210)の陵から1.5キロしか離れておらず、調査の結果、始皇帝陵に副葬されたものであることが判明した。政府が農民たちを転居させて発掘をしたところ、兵士の俑は約8000体。ほかに600体の馬俑と100台の戦車も掘り出された。

 司馬遷の『史記』などに記述されながら、ながらくその存在が疑問視すらされていた兵馬俑が、思いもかけず姿を現したのである。おびただしい数の兵士や馬は、亡くなった始皇帝が死後の世界で困らぬように用意されたものだと考えられている。

 始皇帝は中国を初めて統一した皇帝であり、ここから2000年にわたって歴代王朝が続いていく。法による統治、郡県制の行政単位と官僚による中央集権システム、統一通貨制度、度量衡(計測の単位)の制定、交通網の整備など、現代中国で使われている統治システムは始皇帝の時代に始まっている。

 北京西駅から高速鉄道に乗ると、ほどなく右手の車窓には黄土色をしたいかにも古い地層の丘が連なり、左手は深い靄の中に木々が姿を現すのみである。その靄が大陸特有の土埃なのか、この国で深刻になっている大気汚染なのか、旅人である私にはわからない。

 最高時速304キロでその靄の中を抜けた列車は、5時間後、真新しい西安北駅に滑り込んだ。空港のような巨大なコンコースを抜け、地下鉄に乗り換える。路線図を眺め、なんだか京都の地下鉄みたいだなと思い、いやそうではなく京都が往古の西安を模して造られた都市だったのだと思い出した。

 西安の旧市街は周囲十数キロの城壁に囲まれている。そこは漢代から唐代まで「長安」と称された場所である。それより以前の始皇帝の時代、このすぐ近くに秦の都・威陽があった。

 地下鉄の真上、デパートや銀行が並び人々が行き交う南北の大通りを歩きながら、長安のメインストリートであったこの同じ大路を、もしや李白や阿倍仲麻呂も歩いたのだろうかなどと夢想を巡らせていた。

 翌日、朝からバスに1時間少々揺られて郊外の兵馬俑博物館を見学し、午後は市内に戻って陝西歴史博物館を見学した。

 西安はシルクロードの起点であり帰点である。街には今もムスリムが多く暮らす。食材にムスリムのためのハラル処理を施した「清真」と表記された飲食店も目立つ。夕食をとった麺屋では、柱にコーランの聖句が漢字で記されていた。夜市にでかけてみると、イスラム帽を被った人々がピーナッツ飴や羊肉の串焼き、ヨーグルトなどの露店を賑やかに並べていた。

 白川静は、「文字は、神話と歴史との接点に立つ。文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割をになうものであった。したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化するために生まれたのである」(『漢字――生い立ちとその背景』)と記している。

 陝西歴史博物館でこの土地から出土した大量の文物を時系列で眺めながら、私はこの白川の言葉の片鱗をたしかに実感した気がした。

 初期の青銅器に絵のように刻まれていた象形文字は、やがて美しい篆書体の漢字となって、そこに起きた出来事や人々の感情を綴っていく。それは単なる情報の記録ではない。1文字1文字には、その文字でしか担い得ないゆるぎない概念があり、それらを留めることは見えざる世界を見える世界に写し取り、宇宙の秘められた法則と力を現実の人間と社会に湧き出させる秘儀そのものであったのだと思う。

 そして、この漢字という人類史でもっとも豊饒な文字体系を創造したことで、中国の人々はもはや聖堂も神像も必要としないままに、居ながらに背後の永遠なるものと交流し往還する「生」を生きる術を手に入れたのではあるまいか。

 世界に類を見ない壮大な始皇帝の兵馬俑は、この国の屋台骨を作った最初の皇帝がどれほど切実に「生と死」の秘密を探求していたかを証言している。その数千のもの言わぬ俑たちが2000年の時を経て、あの文化大革命の混乱のただ中に姿を現した事実には粛然とするものがある。

 自分は何者なのか。どこから来て、どこに行くのか。いかに文明が発達しても、否、発達すればするほど、人はこの問いの前に立ちすくむ。

 祈るという行為は、瞬間のわが生命が、奥深くの永遠なるものの律動を聞こうとする営みである。信ずるという行為は、自身の深い記憶に錨を降ろしていく作業である。

 もしかしたら中国は、始皇帝の時代から今日まで一貫して変わらず、じつはもっとも宗教的な社会を生き続けている国の一つなのかもしれない。西安の石畳を歩きながら、そんなことを思っていた。