2014年12月15日月曜日

闇を照らす言葉





 東京・広尾の山種美術館で開催されている「東山魁夷と日本の四季」展の、ブロガー内覧会にでかけてきた。

  山種美術館は昭和41年(1966年)に日本で最初の日本画専門の美術館として創設され、竹内栖鳳の『班猫』(重要文化財)、速水御舟の『炎舞』(同)など、人気の高い近代日本画を所蔵していることで知られている。

 展覧会での見どころの1つは、皇居宮殿にゆかりのある巨匠たちの作品が揃ったことである。

 私の仕事場の書架には集英社の現代日本写真全集『宮殿と迎賓館』が収まっているのだが、これを買ったのは高校生の時だった。当時の私は漠然と建築家になることを夢想していた。

 新年祝賀の儀や国賓を招いての宮中晩さん会などがおこなわれる皇居の宮殿は、昭和43年(1968年)に落成した。明治宮殿が戦災で焼失したあと、戦後日本の建築技術と美術工芸の粋を結集して造られたものだ。その美しいたたずまいを、私は飽きることなくページを繰りながら眺めていた。

 宮殿の正面玄関である南車寄を入った賓客が最初に目にするのが、正面の「波の間」の壁面いっぱいに描かれた東山魁夷の『朝明けの潮』である。幅14メートル余の大壁画。緑青色のゆったりした波に、魁夷は太古からの悠久の時間と平和への思いを込めた。

 東山魁夷の画業を代表する作品なのだが、人々が実物を観ることは難しい。そこで、なんとか人々が目にできるものをという山種美術館創立者・山崎種二氏の懇請を受けて、新たに描かれたのが同館所蔵の『満ち来る潮』(幅9メートル)である。

 宮殿の絵とは少し異なり、『満ち来る潮』は潮が岩に当たってしぶきを上げる動的な構図となっている。プラチナ箔で描かれた波しぶきが鮮やかに映えるよう、展示にあたって魁夷は下方からの照明を設置することを指示したそうだ。

  「東山魁夷と日本の四季」展では、魁夷の『満ち来る潮』のほかに、やはり宮殿のために制作されたものと同じモチーフの作品として山崎種二が依頼した、いずれも同館所蔵の『万葉和歌』(安田靫彦)、『日本の花・日本の鳥』(上村松篁)、『朝陽桜』(橋本明治)、『楓図 小下絵』(山口蓬春)、『曜』(杉山寧)が一堂に並べられている。ちなみに宮殿・千草の間を飾っているものと同じ意匠の安田靫彦の作品は、絵画ではなく鮮やかな料紙に万葉集の歌をしたためた「書」である。

 この宮殿の大仕事と同時期に、魁夷は足しげく京都に通ってその景色を描いた。時代は1960年代に入り、日本の風景は急速に変わりつつあった。「京都は今描いといていただかないとなくなります」という川端康成の言葉に背中を押されて、魁夷は「京洛四季」として18点もの連作に挑んだ。

 私がとりわけ胸を打たれたのは、大晦日の京都を描いた『年暮る』である。魁夷の作品にはどれも人物が登場しない。現在の京都ホテルオークラの場所、当時の京都ホテルの屋上から東山の方角に向かって川端御池の街並みを描いた『年暮る』は、深々と降る雪明りの中でただ木造の家々の屋根だけが並んでいる。

 けれども不思議なことに、その絵の前に立つと、暗いどの屋根の下からも人々の人生の営みが、苦も楽も抱えて年を越す庶民の息づかいが伝わってくるのだ。東山魁夷という画家がどれほどの祈りを込めて筆をとっていたか、私は衝撃を受ける思いがした。

 ところで、この「東山魁夷と日本の四季」展のもう1つの見どころは、作品と共に掲げられている魁夷自身の綴った折々の文章である。

 魁夷は東京美術学校(現・東京藝術大学)で学び、ドイツ留学も果たすが、父の危篤で途中帰国。時代は戦争に突入し、画壇の潮流も容赦なく転変した。昭和20年7月には魁夷も37歳の身で召集令状に駆り出されている。

 終戦の年には母が亡くなり、翌年には最後の肉親であった弟も世を去った。40歳を目前にした昭和22年にようやく日展の特選になるまで、東山魁夷は先の見えない苦悩深い日々を生きていたのである。

 若き日、暗中模索が続く魁夷に、師である結城素明は「スケッチブックを持って、どこかへ写生に行くんだね。心を鏡のようにして自然を見ておいで」と語ったという。

 魁夷は、70歳の時の文章で「今でも、その時のことを思うと、目頭が熱くなる」と綴り、こう続けている。

 「私は先生の言葉の通りにスケッチブックを持って、すぐ、旅に出たが、この言葉の意味が、闇を照らす光明のように私の体内を貫いて、強い感銘を与えてくれたのは、もっと後のことであった。戦争ですべてを失った時であった」(『風景との対話 東山魁夷画文集』)

 展覧会では、山種美術館所蔵の結城素明の描く四季の作品が、弟子の晴れがましい仕事を見守るように飾られていた。