2016年4月11日月曜日
永遠性
Eテレ(NHK教育テレビ)のドキュメンタリーで、画家の諏訪敦さんを取り上げた回があった。
諏訪さんは、非常にリアルで細密な絵を描かれる人だ。番組は、終戦70年の2015年にむけて、諏訪さんが取り組んだ一枚の絵の誕生を追うものだった。
それは、終戦のわずか3ヵ月前、1945年の春に満蒙開拓団として満州に渡り、その年のうちにハルビンで死んだ、諏訪さんの祖母の亡骸を描いた作品である。飢餓と発疹チフスに覆い尽くされたソ連軍の捕虜収容所中で、祖母はまだ31歳という若さで世を去った。
諏訪さんは、父親が生前に書き残した手記で、はじめて自分の祖母の悲惨な最期を知った。
もはや日本の敗戦が避けられないとわかっていたはずの時期に、なぜ自分の家族は満州に渡ることになったのか。なぜ、祖母はその若さで死ななければならなかったのか。その地獄の中で、いかにして自分の父は命のバトンを受け継ぎ、今の自分へとつながったのか。
当時の祖父母のことを知る開拓団の生き残りの人を捜し、あるいは真冬の中国東北部を訪ね、画家は祖母が人生のラストで見ていたであろう風景を体感していく。
往時とはすっかり様変わりした現代中国だが、それでも70年前もこのような光景だったのではないかと思える場所もある。
板谷秀彰さんの撮る天才的に美しいカメラワークによって、悲惨な記憶の地に立つ諏訪さんの姿が、私にはまるで宗教画のようにも見えた。
私が驚いたのは、諏訪さんが非常に詳細なことまで懸命に取材しようとされていた姿だけでなく、祖母の遺骸を描いていく〝過程〟である。
大きなキャンバスに一旦は、本来あったであろう31歳の健康で美しい祖母の裸体を横たえて描き、その上で病理学者の助言まで得ながら、そこにリアルな飢餓と疫病を乗せていく。正確に言えば、健康な生命を飢餓と疫病で削り取っていく。
完成したのは、凍てついた地面に打ち捨てられた痩せこけた女性だったが、その枯れた腹の皮膚には、子供たちを生んだ証である妊娠線が残っていた。
テレビに映る諏訪さんの制作の過程を見ながら、私は二つのことを思い起こしていた。
一つは、報道写真家・徳山喜雄さんの写真集にあった「警察官の合同葬儀」という写真。冷戦崩壊の歴史を東側で撮った『千年紀のメッセージ』という写真集の中に、モスクワの騒乱で死んだ、まだ若い警官の棺を大勢の人々が担いでいる一枚がある。
棺にはまだ蓋がされておらず、納められた警官の遺体が写っている。国家が崩壊する大混乱の中で、国家のために職務に就き、おそらく撃たれて死んだのだろう。
冷たく白い、しかし若く美しい遺体の顔が、その人の命を奪った巨大な暴力、人間の残酷さを痛烈に告発し、一方でそんな悲劇にも揺るがない人間の尊厳というものを見る者に言い諭す。
私は諏訪さんの絵を見ながら、その警官の写真を思っていた。
思い起こしたもう一つは、「永遠性」ということである。
現代美術家の宮島達男さんが著書の中で、東洋と西洋の一番大きい違いは「永遠性」の概念の違いだと語っていて、私は膝を打ったことがある。
西洋における永遠性の概念は、固定して変化しない不変性だ。時間であれ空間であれ、神の眼というべき絶対的なものである。
それに対して東洋における永遠性とは「変化していく様態そのもの」だと、宮島さんは語っている。「変化しながらうつろっていく事柄それ自体の中に永遠性を見出す」のであると。
諏訪さんは孤独なアトリエの中で、自分が会ったこともない祖母の美しい「生」を描きあげ、そこにリアルな「病」を与えて、「死」の形に至らせた。そのことは出来上がった絵を見る者には、けっしてわからない。
若さや美、権勢の頂点の姿を、永遠に留め置きたいと願って描かれた絵画は、世にたくさんある。しかし、それとは異なる思想で永遠を観じる方途を、私たちは知っている。
諏訪さんは旧満州の凍った土の中に埋められていた祖母の生老病死を丁寧に拾って、祖国の暖かな光の下で、ご自分の記憶の深いところに埋葬されたのかもしれない。
あまりに非道な暴力によって奪われた生命に、尊厳と永遠性を取り戻すために。