1978年にアフガニスタン北部で発見されたティリヤ・テペ遺跡は、当時「ツタンカーメン王墓の発見に並ぶ」と言われるほど世界の考古学界を狂喜させた。
紀元1世紀ごろの遊牧民の王族の墳墓群で、埋葬されていたのは男性1人と女性5人。副葬品として2万点を超す金、銀、象牙細工などが出土した。これらはきわめて精緻な技術と芸術性を誇っていただけでなく、ローマからエジプト、インド、中国に至る広範な文明との交流が如実に表れており、この地が〝文明の十字路〟であったことを雄弁に物語っていた。
発掘された品々はアフガニスタンの首都カブールの博物館に収蔵されたのだが、翌79年にソ連のアフガニスタン侵攻がはじまる。以後、イスラム武装組織による内戦、タリバン政権の樹立、9.11を受けての米国の侵攻など、アフガニスタンは最悪の政情不安と戦火にまみれ続けた。
その間、同国内の多くの貴重な歴史遺産が盗掘され略奪され、あるいは破壊された。カブールの国立博物館も爆撃を受け、ティリヤ・テペの出土品は行方知れずになっていた。戦乱に乗じて強奪されたと思われていたそれが、じつはカブール市内にある大統領府の中央銀行地下金庫に守られていたことが公表されたのは2004年になってからである。
ソ連撤退直後の89年、危機を感じた博物館員たちが決死の覚悟で密かに運び出し、しかもそのことを家族にさえ黙秘して〝自分たちの文化〟を守り通してきたのだった。
この品々は現在、国際的な協力のもとで疎開措置として世界各国を巡回しており、日本でも2016年に「黄金のアフガニスタン」展として九州国立博物館と東京国立博物館で公開されたところである。
ティリヤ・テペの6つの墳墓のうち、王であろう男性が埋葬されていたのは4号墓。彼が生前に所有していたと思われる装飾品の数々も副葬されていた。
インド・メダイヨンと命名された直径1.6センチほどの黄金のメダルは、この男性の胸の上に置かれていた。紀元前1世紀頃のものと考えられている。死者の胸の上に置かれていたのは、このメダルが死者にとって精神的に非常に重要な意味合いを持っていた証左だろう。
メダルの表にはライオンの咆哮する図像と「恐れを滅し去った獅子」というカローシュティー文字が刻まれている。裏には、法輪と男性の図像があり、「法輪を転じる者」と刻まれている。
ブッダの説法する座を「師子座」と呼び、ブッダの説法を「師子吼」と称するように、仏教ではブッダの表象にライオンを用いてきた。ライオンは〝百獣の王〟であるから、なにものに対しても恐れを抱かない。
たとえば法華経従地涌出品には「師子座の上の仏」「諸仏の師子奮迅の力」「其の心に畏るる所無し」「無上の法輪を転じ」とある。そう、このメダルの裏表に刻まれているものは、いずれもブッダの持つ特質であり、ブッダを讃えるイメージである。
ティリヤ・テペから発掘された副葬品では、このインド・メダイヨンが唯一の仏教的なもので、法輪を転がしている男性をブッダだと見れば、この小さなメダルこそが世界最古の〝仏像〟ということになるそうだ。
よく知られているように、ギリシャ文明の影響を受けていわゆる「仏像」が誕生するのは紀元1世紀のガンダーラからである。それ以前、釈尊滅後のインドではブッダの外形を図像化することは避けられ、レリーフなどでも菩提樹や師子座、法輪というシンボルで代替されていた。
インド・メダイヨンに刻まれているものは、ブッダの外形的な荘厳さというよりも、その内的な特質であり振る舞いである。何か超人的な力で衆生を救う雲上の救済者ではなく、心を鍛え上げて恐れを滅し去った等身大の〝人格の人〟であり、常に民衆の中へ語りかけ働きかけていた〝行動の人〟の記憶である。
眼には見えない大きな世界と、今ここを生きている自分をつなぐ何か。
上野の東京国立博物館で、ガラスケースの中の小さなメダルに見入りながら、私は2千年前の墓の主に思いをはせていた。
ティリヤ・テペに埋葬されていた遊牧民の王自身が、おそらくは仏教徒であったのだろう。
王にとってのブッダは、神々のような存在だったのだろうか、それとも生き方の規範としての〝人格の人〟〝行動の人〟だったのだろうか。
彼が近しい者であろう4人の女性と一緒に、美しい宝飾品の数々を添えて丁寧に埋葬されていたことは、この王が人々に敬愛されていたことを物語っている。
そして、棺に納められた王の胸の上に、死後も永遠に王が携えていくものとして、インド・メダイヨンがそっと置かれたのである。